社伝によりますと露天神社の創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されています。
南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こし明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。とのことです。
お初天神境内は、飲み会への道すがらよく通過した境内です。しかし桜の時期ははじめてのことです。
正式な名称は露天神社で、元禄16年(1703)に天神社境内天神の森で実際にあった堂島新地天満屋の遊女お初と平野町手代「徳兵衛」の心中を題材に、近松門座右門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を執筆し、近松世話物のはじめとして近世戯曲史上の文学的作品として評価されています。天神社はその後そのヒロインの名前「お初」にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになっています。
曽根崎心中の書き出しは
「げにや安楽世界より、今この娑婆に示現して、我等がための観世音、仰ぐとも高し。高き屋に、上りて民の賑わを、と契りおきて難波津やみつつゞ十とみつの里、札所々々の霊地霊仏。・・・・・・」と謡われる。文楽は観劇する機会は極めて少ないのですが、浄瑠璃の語りと三味線そして人形使いは格調高く理解し難いこともたたありますが聞きほれることもあります。
江戸時代初期に京、大坂で繁栄したと言うことは、廃止しろと高言する現代人より芸術に関する知能ははるかに優れていたことになるのでしょうか。・・・・・
とかく地盤沈下の烈しいそして評価の低い大阪には古い世界に誇る歴史が文化が存在していることを知ってほしいものです。
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