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ニューイャーコンサート

元日はウィーンフィルニューイヤーコンサートの衛星中継が楽しみにしている。苦難の歴史を乗り越えたがため深みのある演奏が可能なのだろう。 CRTが劣化しているのか画像は鮮明でなくなっいるようだ。この時代ケインジアンの戯れ言にまよわされず映らなくなるまで使おう。 31日は、2008年クラシックハイライトで、オリヴィエ・メシアンの「世の終わりのための四重奏」を聞いて驚愕させられた。この室内楽はドキュメンタリーとして聞く。音楽でこのような表現が可能なのかと聞き入った。リズムの創作者であり鳥類学者そして神学にも造詣が深いという。今年一年最も心に響く曲であった。

清めの砂

賀茂別雷神社、上賀茂神社の二の鳥居を入った細殿前の円錐状の二つの砂山でこの砂山は御神体である神山を模したものであり立砂である。 鬼門にまく清めの砂の起源とされている。 昨年の不可思議な物欲しげな人の動きの鬼門を清めたいと思う人は多いだろう。

甲山88箇所石仏巡礼第31番

五台山金色院竹林寺 本尊 文殊菩薩 開基 行基 高知県高知市 神亀元年(724年)聖武天皇の勅命により唐の五台山を模して行基により開基された。 夢想国師による池泉鑑賞式の庭園が有名であったが明治の神仏分離の政策により廃寺となったがすぐに再興された。

料亭

手入れの行き届いた静かな佇まいはどれほど好ましい時間がもてることか。

レール鉄柱

東海道線の東淀川駅に古いレールの鉄柱の上屋があり下車する機会があり曲線が美しさを撮影した。 ペンキの塗り重ねで字体は定かでないが1908年と読み取れ、資料を見るとアメリカの鉄鋼メーカーの名前がかろうじて読み取れた。

包丁塚

全国でも珍しい包丁塚が生田神社にある。 料理に携わる神戸市内の飲食業関係者により魂を込めて料理を提供し料理する人の思いをこめて使う包丁に感謝し食文化の向上を願って建立された。 この塚を建立する思いを持つ料理関係者には食の安全について語ることは不要だ。 神戸からの新しい発信である。 平成5年10月25日建立

梅田ガーデンアベニュー

撮影したいと思いつつ通りすぎていたがニコンサロンに所要がありレンズを向けた。

ポインセチア

花言葉は、私の心は燃えています、祝福という。情熱的な花が不況感わわずかでも和らげてくれるようだ。

続神戸ハーバーランド

神戸ハーバーランド

久しぶりに訪れた神戸ハーバーランドの夜景を撮影した。世界同時経済不況はこの街も元気がなさそうだ。

大阪駅改良工事阪急32番街

2011年に完成する大阪駅工事の進捗状況を時間を見つけてアクティ27F、阪急32番街等から撮影している。 日ごとに変化する様子を古い画像も交えて見て頂きたいと思う。

甲山88箇所石仏巡礼第40番

平城山薬師院観自在寺 本尊 薬師如来 開基 弘法太子 愛媛県南宇和郡愛南町 観自在寺は第51代平城天皇の勅願所として、大同2年(807年)4月、弘法大師が開創した。本尊の薬師如来と脇仏の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩の三体尊像は、大師が一本の霊木から刻んだと伝えられている。

初冬の山道

紅葉も色あせ初冬の暖かい日差しを浴びている。心惹かれるのは散るときの美しさを秘めているからであろうか。この時期になると訪れる人も少なく静かな山歩きが楽しめるひとときがあるとしても・・・。

ル・コルビュジエ

ルナ・ホールは、坂倉建築研究所の設計。1964年竣工した。 坂倉準三は(1904年5月29日〜1969年9月1日)は日本の建築家である。ル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した。1937年のパリ万国博覧会では、日本館の設計を手がけ、日本のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、海外でも高い評価を受けた。 この建築は坂倉準三氏らしい端正にして繊細、そして力強さが表現されているように感じた。 芦屋市民会館、芦屋市立公民館、同別館で構成されている大ホールである。日本で最初の本格的アダプタブルシアターとされる。 ル・コルビュジエ(Le Corbusier、1887年10月6日 - 1965年8月27日)はスイスで生まれ。 フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリという。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる。 歴史上の功績は、鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性をモットーとしたモダニズム建築の提唱者とされている。 ル・コルビュジエの思想は世界中に浸透したが、特に1920年代の近代主義建築の成立において、造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法は一つの規範となり、世界に広がって1960年代に一つのピークを極めその反動から1980年代には装飾過多、伝統回帰的なポストモダン建築も主張された。 安藤忠雄氏の原型でもある。

織部灯篭

切支丹灯篭とも言う。十字架を形どった灯篭の棹の部分で打出の西国橋詰めにあった。火を灯す部分はない。 昭和44年6月に芦屋市公民館の敷地に保存されたと記録されている。

旧居留地108番館

伊藤町に明治初年建てられた煉瓦造りの建物の窓枠一つが、道路に面して残されており、銘板がはめ込まれている。碑文には 旧居留地108番の銘板 神戸開港間もない明治初年此の場所に建てられた煉瓦造り建物の窓まわりの部分です。窓枠には重量を支えるために御影石を三角に組んで載せ煉瓦は現在のものよりも薄いものが用いられております。なお下の会社板は所有者が、昭和8年頃より建物の入口に掲げていたものです。 KONDO CO,,LTD 株式会社 近藤商会 と刻まれ旧居留地であった歴史を留めている。

船形

船形万燈籠送り火の火床。京都市の北東部・西賀茂の船山にある。火床数は79基で大きさ縦約130メートル、横約200メートルある。 鴨川から撮影した。

海軍操練所跡  

埋め立てられた神戸京橋の橋詰めに3基の碑が並んでいる。書籍を開いた形の碑文のある「史蹟旧海軍操練所跡」碑 、「史跡 海軍操練所址」及び「神戸電信発祥の地」である。 神戸海軍操練所は、日本海軍の発祥地とされる。 安政2〜6年(1855〜1859)に長崎海軍伝習所が開設されていたが、この神戸操練所は、日本を防衛するという意識で元治元年(1864年)5月に開設され本格的な海軍養成を目指した。 神戸海軍操練所跡由来として碑文は 万延元年〈1860年)一月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、臨丸〈300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。 文久三年(1863年)四月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の人材が輩出したのである。 元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865年)三月、ついに閉鎖されるの止むなきに至ったのである。 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない。 今はただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの救いである。 ここに当時を偲び郷土を愛する人びとに、この記念碑を捧げる。 昭和四十三年十月建之 神戸海軍操練所跡由来碑の横の碑文 不鮮明はあるが、神戸電信発祥の地の碑の横に、正面には史跡 海軍操練所址神戸市。と刻まれている。側面に、昭和二十九年二月 ...

師走風景

激動の2008年も終わりを告げる。いつまでも失われた10年から脱却できるのか。幻の史上最長の好景気も失せ耐えることもうすぐ20年の年月が経過する。 千数百年の激動の時代を耐えてきた忍んできた京都人の生き方を学ぶことだ。そして人間らしく生きることを考えたいものだ。

里山秋色

久しぶりに六甲山麓の鷹尾山と風吹岩跡などの里山を歩いた。秋色があちこちに残り暖かい日差しを受け輝いていた。風は冷たく歩くには楽しい山道だった。