市街北東部の山麓丘陵上に数多くの古墳が群がることは早くから知られており寛文年間( 1661-1672)に打出村分村として岩ヶ平周辺において新田開発されたことが契機として村人たちに注目されるようになった。
「八十塚」の古称は、近世に編まれた地誌に由来し享保19年(1734)の「摂津志には打出村西岩平山中有数冢呼曰八十塚」と記載されている。
寛成8年(1796)に刊行された「摂津名所図会」には八十塚、打出村の西、岩平の山中にあり数の多きより名とす」とある。全国各地に残る百塚、千塚、塚原、塚脇等の地名の群衆古墳特有の総称として親しまれてきた歴史がある。
古墳は、外形は径10〜20メートル、高さ2〜3メートルの小さな円墳で南に向かって開口する横穴式石室を内部に構築している。
石室の構造や副葬品から多くは六世紀後半の築造にかかり七世紀代には盛んに追葬が行われたことが実証された。
八十塚古墳群は、六麓荘町・岩園町・朝日ヶ丘町および西宮市苦楽園4・5・6番町一帯に広がる6世紀後半~7世紀後半の芦屋市内最大規模の群集墳で、都市部に残る類例少ない古墳時代後期の古墳群として知られている。
現在62基の古墳が確認されており、その多くは横穴式石室を内部構造にもちますが、一部竪穴系のものを含んでいます。出土遺物には須恵器・土師器・耳環・玉類・鉄釘・鉄鏃・紡錘車・陶棺などがある。
八十塚古墳群は朝日ヶ丘・岩ヶ平・老松・苦楽園五番町・剣谷の5支群に分けて考えられており、岩ヶ平支群は標高65~100m付近に、東西258m、南北300mの範囲で確認されている。
岩ヶ平支群C小群の21号墳は岩園町の調査地点の道路を挟んですぐ北側に、G小群の16号墳は道路を挟んですぐ西側に位置しており、さらに13・14号墳が岩園天神社境内に現存している。一方、六麓荘町の調査地点の道路を挟んだ東側には岩ヶ平支群F小群が、南には岩ヶ平支群H小群の存在が確認されている。
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