スキップしてメイン コンテンツに移動

文学周遊 井原西鶴  浮世草紙ゆかりの地 天満堀川 

 天満菅原町    樽屋おせん「情を入れし樽屋物がたり」

     花か化けて醜い人もさかり哉
 
    好色五人女の巻二「情を入れし樽屋物がたり」は貞享二年正月大坂天満に住む樽屋おせんの姦通事件をもとにした作品である。
 天満の樽屋の女房おせんは近所の麹屋長左衞門の亡父五十年忌の法事の手伝いにでかけた。納戸の菓子を盛り合わせているとところへ長左衞門がやってきて、棚から入子鉢を下ろそうとして、おせんの頭の上へ落としてしまった。結髪が解けたおせんを見た内儀は気をまわしののしり、嫉妬に狂い盛りつけた刺し身を投げつけるありさまこらえていたおせんも「おもへばおもへばにくき心中、とてもぬれたるぬれたる袂なれば、此うへは是非におよばずあの長左衞門殿になさけかけ、あんな悪寒に鼻あかせん」と長左衛門をたらしこんで仕返しをしてやろうと決意した。ある夜、自宅に長左衞門を引き入れ、情事を果たそうとしているところを夫に見つかり、おせんはいさぎよく槍鉋で胸元を刺して果てた。これは今でいう不倫ゆえの悲劇である。不倫とはいっても江戸時代は人妻の密通は死罪に値したから現在のドラマのように優雅にはしておられない。おせんは現場を押さえられた以上は命はたすからないと覚悟して自ら死を選んだ。長座衞門も処刑され一緒にさらされるという悲惨な結末である。
 現在の菅原町から扇町公園付近まで、天満堀川が掘られた。物流のための運河だった。1598年(慶長3年)のこと。大川(旧淀川)に荷揚げさせた日本中からの物資が、小分けにされて、天満堀川を伝って運ばれていった。

 かつては船が通い、堤には花が咲き、天満の繁栄には欠かせな「摂津名所図会大成」には、清水通じ、その潔きこと、言語に絶す。堤には柳、桜を植えつらねて風景を増し、船の行き来も自由になり、花の頃は人々が観賞に集まる。むかしのことを知る者は、本当に同じところかと疑うばかりの景地と書かれている。1972年(昭和47年)高速道路建設のため埋め立てられてその面影は橋名板のみに残されている。



 あちこちに良質の水脈があって、美味い湧き水があり、天満では、江戸時代から昭和の初期にかけて、135軒の酒屋があり酒造りが盛んだった。そのような時代背景にした作品として西鶴の代表作には「好色」と名のつく一連作がありますが、現在私たちが使う意味での "好色"とは少々ニュアンスが違っていたようです。当時の日本には、今日使っているような "恋愛" ""という言葉は一般化しておらず、男女の恋愛的な関係を表すには "" ""といった言葉が多く使われていた。




 五人の女たちのさまざまな恋物語を綴ったこの本は、貞享3年(1686)に発表されました。時代は、町人文化が成熟期を迎え、活気に満ちていた頃です。しかし、その一方で、封建道徳や制度、法律は強化される傾向にありました。収められている五つの物語は、こうした時代を背景に展開します。

 五人の女たちの名前は、お夏、おせん、おさん、お七、おまん。娘の恋も、人妻の恋もあります。いずれも実在の人物・事件に取材したものである。その激しい 五人の女たちの名前は、お夏、おせん、おさん、お七、おまん。娘の恋も、人妻の恋もあります。いずれも実在の人物・事件に取材したものである。その激しい生き方は、俗謡(流行り歌)に歌われ、浄瑠璃や歌舞伎などの題材にもなっている。 
 好色五人女は、女性の自由な恋愛がままならなかった江戸時代の物語といえ、恋に破れた時、思わず死にたくなったり出家したくなったりする気持ちは男でも女でも恋愛の自由な現在でも普通の人間でてあれば多分変わらないであろう。当然実際に行う人も少ないとしても西鶴の描いた恋愛のエネルギーは現在社会とまったく変わらない迫力を持ってせまってくるものが存在している。
 好色五人女は、実際のモデルを持つ5話からなる恋愛小説集。第1話は姫路でのお夏清十郎の事件で姫路但馬屋の娘お夏と手代の清十郎が恋に落ち駆け落ちをするが捕えられてしまう。清十郎は殺されお夏は発狂し、のち尼になる。第2話は大阪天満での樽屋おせんの事件。第3話は京都でのおさん茂兵衛の事件。いずれも人妻の不義と悲劇的な末路を描いている。第4話は江戸での八百屋お七の事件で、恋しい男に逢いたい一心から放火した話。第5話は鹿児島でのおまん源五兵衛の事件で、この話だけはおまんの親が男との仲を許して巨額の富を贈るという結末になっている。



西鶴の透徹したリアリズムは近代文学のルーツとされ、また一方近代貴教育から見失われた豊潤な文化の鉱脈が西鶴の世界にあります。江戸時代という地名のためか近世文学が江戸の偏って論じられる固定観念が浸透し上方文化の影が薄くなっているが、西鶴の生きた17世紀の世界では西鶴のユーモアにあふれた世界文学は散在しないとされ世界的に評価されています。

コメント

このブログの人気の投稿

芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

芦屋の邸宅 六麓荘町の街並み

自宅近くにある豪邸のある町ですが訪れる機会も少なく時折散策することもありますが歩く人も少ないのですが最近は景気も上向きか改築される家が多くなって変化していいるようです。  sony   NEX-5   E18-55      F3.5-5.6   OSS     

芦屋の邸宅 六麓荘の秋

晴天に誘われて朝の散歩にと六麓荘町をぐるり一周した際の画像です。この町まで来るとヘイズもなく秋天の青空に魅せられました。しかし瀟洒な豪邸が建ち並んでいまが世代交代なのか更地になった場所もみられました。 邸宅の庭の紅葉もはじまり爽やかな青空のもとの散策でした。この町の最も高い所は標高200㍍でこの下に山陽新幹線の六甲トンネルがあります。西宮方からおよそ3.5キロメートルの位置です。自宅からおよそ50分程度で軽い散歩コースでした。  sony   NEX-5   E18-55      F3.5-5.6   OSS