スキップしてメイン コンテンツに移動

文学周遊 井原西鶴 俳諧ゆかりの地 


文学周遊 
談林派俳諧井原西鶴ゆかりの地 大阪天満宮 生国魂神社 住吉神社


短歌・連歌の発展
 中世の日本文学史では、抒情における和歌・連歌の発展を特記すべきである。とされています。
 当時、和歌は寺社に奉納することが大変流行していましたが、大阪の地では住吉大社がその中心となります。この時期に和歌より自立したといえる連歌は、その文芸性を高める一方、和歌より裾野を広げ、下級武士階級などにも受け入れられました。中世末期の織豊政権下では茶道とともに社交的な場としての人気を博し、大阪の各地でも催されます。今でも平野の杭全神社では連歌の会が催されています。
 連歌は発句、脇句、三句というルールのもと、集団で詠み進む文芸ですので、個人的な所産である文学より開放的であったといえます。しかし、それも文芸性が高まるにつれて、連歌の家、連歌師というリーダーを必要とし、ルールも複雑化していったので、伝統的な連歌より俳諧は発句だけが独立するというという形が多くなりました。

西鶴と西山宗因
 この代表といえるのが、大阪天満宮連歌所の宗匠、西山宗因でした。西山宗因は俳諧師としては京都の松永貞徳に学びながら、その松永貞徳を中心とする貞門派から独立し、談林派を名乗ります。和歌・謡曲などの文句の奇抜なパロディ,句調の軽妙さなど、旧来にない面白い文芸は、たちまち大阪の人々に受け入れられ、大坂が全国的にもっともすぐれた俳諧文化圏の核となります。
西山宗因(1605〜1682)は江戸時代初期の俳人。もと肥後国(熊本県)八代藩の武士でしたが,連歌師(れんがし)をこころざして京都に上った。のち大坂にうつって連歌(何人もの人が,短歌の上(かみ)の句(く)と下(しも)の句(く)を交互によみつづけるもの)の師匠となり,やがて俳諧(はいかい)に転じた。わずらわしい規則の多い松永貞徳らの俳諧貞門に対して,自由で滑稽味のあふれた談林派の俳諧をうちたてました。
 こころ爰になきか鳴かぬか郭公 
西鶴は15歳のころから俳諧を習い始めました。若き日は鶴永と号していた。21歳(1662年)の頃には職業俳人の地位にあったが貞門俳諧の古風な言語遊技飽き足らず、俗語や雅語を自由に駆使し、人間や社会風俗を軽妙に歌い上げる談林俳諧に傾倒、西山宗因の門下に入っています。
 俳聖・松尾芭蕉が「宗因がいなければ、これまでの俳諧の流れは生まれなかった」と評しています。
 つまり、宗因そして西鶴、芭蕉が存在していなければ現在の俳句が成立しなかったとされています。

西山宗因句碑

生国魂神社

 天下矢数二度の大願四千句也
西鶴像
碑文には
井原西鶴は寛永19年(1642)に生まれ元禄6年(1693)大坂錫屋町(現谷町3丁目)で没した。「好色一代男」「好色五人女」「本朝二十不孝」「武家義理物語」「世間胸算用」など多くの名作を残し延宝8年に一昼夜4千句の独吟矢数俳諧の新記録をこの地生国魂神社南坊で樹立した。
西鶴の作品は世界各国で翻訳されその文学的評価は高く1968年ユネスコは世界的偉人の一人として西鶴を選んだ1992年は西鶴生誕三百五十年の年であり大阪真田山ライオンズクラブC.N.20周年を記念してここに井原西鶴像を建立する
平成4年(1992)6月10日
大阪真田山ライオンズクラブ 
と刻まれています。
 生国魂神社

延宝二年(一六七三)六月一七日から二八日までの一二日間生国魂神社境内南坊において万句俳諧を興業した。出席した俳人は一五六人、二百人以上もの人が参加したと記録があります。
 また、その年最初の編著「生玉万句」を刊行、延宝三年(一六七五)独唱「一日千句」に続いて延宝五年には一夜一日独吟一六〇〇句の即興吟を達成し矢数俳諧流行の端緒となりました。
 一六〇〇句の記録もやがて大淀三千風らに破られるが延宝八年西鶴は生玉南坊で俳人七〇〇余人聴衆数千人を集め四千句独吟を行い新記録を樹立した。その喜びを「今度西山宗因先師より日本第一前代之俳諧の性と世上に申しわたしさてさてめいぼく此度也」と書き綴っています。
 高台にある生玉南坊からは、現在は見えないが当時は道頓堀や新町、遠く淡路島や六甲の山々を眺めることができました。
 その生玉南坊跡には小さな稲荷社と西鶴像が建立されかっての面影を伝えています。



住吉大社

    神力誠を以て息の根留る大失敗


住吉神社 一之宮
さらに貞亭元年(一六八四)六月五日には住吉社頭で何千人もの聴衆が見守るなか一夜一日二万三千五百句独吟という超人的記録を打ち立てた。一句あたりの速さはわずか3、7秒弱というあまりの速さに書き取ることも出来ずただ棒線を引いて数えています。
 当時の住吉神社は古くから海上の神様として海上の守護神として人々の信仰を集めていた。社頭から住江浜辺が一望でき千鳥が遊ぶ白砂清風の景勝地でした。


住吉神社

西鶴句碑 住吉神社
何と世に桜も咲かず下戸ならば

 句碑を読み解いて調べて見ますと、世に桜がなければ散るのを惜しむことはないのにと在原業平が詠ったのを受けてそれに輪をかけて桜も咲かず、酒も飲めなければ心穏やかな日々だという。という句ですね。

井原西鶴は1642年(寛永19年)〜 1693年9月9日(元禄6年8月10日))、江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。談林派を代表する俳諧師でもあった俳諧の舞台の 文学周遊です。



コメント

このブログの人気の投稿

芦屋の邸宅 六麓荘町の街並み

自宅近くにある豪邸のある町ですが訪れる機会も少なく時折散策することもありますが歩く人も少ないのですが最近は景気も上向きか改築される家が多くなって変化していいるようです。  sony   NEX-5   E18-55      F3.5-5.6   OSS     

芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

神戸電鉄鈴蘭台一本松踏切鉄道画像

神戸電鉄は輸送人員が長期にわたり減少傾向にあり、2011年度は27億円の赤字で経営改善のため設備投資を低い水準に抑制せざるを得ない状況にあり4両編成の車両もワンマン運転である。乗車券は回収されず駅での対応する都市型ワンマン運転となっています。経営改善のため粟生線の廃止も検討されています。 また一方では古びた車両も多く見られ老朽化施設が多く施設の更新改良が進展していないように見かけます。 このため阪急阪神グループとして神戸電鉄の安全確保の為、国の補助制度を利用して施設改良を行い、鉄道を近代化し経営・サービスを改善することがすすめられているとのことですが鉄道経営は大変な時代となっているようです。 NIKON   D3  AF-S  VR NikkorED 24-70mmf2.8 G ED  NX2