スキップしてメイン コンテンツに移動

文学周遊 与謝野晶子


 本名 鳳 晶(しょう)。
 大阪堺に生まれる。女学校時代から源氏物語や枕草子など古典を愛読すした文学少女で、10代半ばから短歌を作り始める。20歳の頃に新聞で与謝野鉄幹の歌を知り深く感銘を受け、1900年(22歳)4月に鉄幹が『明星』を創刊すると同誌で歌を発表しその後初めて鉄幹と会い恋心が生れ翌夏には鉄幹を追って家出同然で上京し、鳳晶子の名で第一歌集『みだれ髪』を刊行、その2ヵ月後に妻と別れた鉄幹と結婚する。時に晶子23歳、鉄幹28歳だった。
 女性が自我や性について語ることがタブーだった保守的な明治の世にあって、愛の情熱を自由奔放かつ官能的に歌い上げた『みだれ髪』は一大センセーションを巻き起こした。歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やわ肌の晶子」と呼ばれた。

生家跡の歌碑
海こひし潮の遠鳴りかぞえへつヽ少女となりし父母の家

堺駅西口駅前広場
ふるさとの潮の遠音のわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲

妙国寺南の府立泉陽高校の中庭には、あの「君死にたまふことなかれ」の碑がある。前身の堺高等女学校が晶子の出身で、脚本家の橋田寿賀子や、女優の沢口靖子の母校でもある。      
 戦時中にここで女学校時代を送った橋田寿賀子は暗い時代だったと回想し晶子は戦前地元堺での評価はきわめて低かった。今でいう不倫、略奪婚、情熱という名の裏返しの極めて非道徳的な女の歌人という評価がなされていた。
 そして戦後もそれは続く。昭和40年代に、中庭に詩碑を建てるときも反対され「同窓会有志」としてでしか建てられなかったという。
 その後、与謝野晶子が「千筋の黒髪 田辺聖子」等の小説の主人公に取り上げられ認められるようになると時代の変化とともに評価は豹変し現在では堺市内のあちこちに晶子が愛する堺の風情を詠んだ30数箇所に歌碑や晶子の像や生家跡の碑そして文学館も設立されて称賛されるようになった。 
 明星派の歌人として歌人に対しても現在社会では想像もできないような評価がされても耐え生涯にわたって鉄幹の仕事をサポートし、家庭では11人の子を育て、太平洋戦争の真っ只中の1942年に63年間の人生を終えた。
そのことは知らない。


本願寺堺別院
劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘ひとつ打つ

覚王寺
その子はたちくしにながるヽくろかみのおごりの春

コメント

このブログの人気の投稿

芦屋の邸宅 六麓荘町の街並み

自宅近くにある豪邸のある町ですが訪れる機会も少なく時折散策することもありますが歩く人も少ないのですが最近は景気も上向きか改築される家が多くなって変化していいるようです。  sony   NEX-5   E18-55      F3.5-5.6   OSS     

芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

神戸電鉄鈴蘭台一本松踏切鉄道画像

神戸電鉄は輸送人員が長期にわたり減少傾向にあり、2011年度は27億円の赤字で経営改善のため設備投資を低い水準に抑制せざるを得ない状況にあり4両編成の車両もワンマン運転である。乗車券は回収されず駅での対応する都市型ワンマン運転となっています。経営改善のため粟生線の廃止も検討されています。 また一方では古びた車両も多く見られ老朽化施設が多く施設の更新改良が進展していないように見かけます。 このため阪急阪神グループとして神戸電鉄の安全確保の為、国の補助制度を利用して施設改良を行い、鉄道を近代化し経営・サービスを改善することがすすめられているとのことですが鉄道経営は大変な時代となっているようです。 NIKON   D3  AF-S  VR NikkorED 24-70mmf2.8 G ED  NX2