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奈良の古刹 紅葉の華厳宗日輪山新薬師寺

新薬師寺は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基は光明皇后または聖武天皇と伝える。奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財が保存されている。本堂には薬師如来と両脇の日光菩薩、月光菩薩を土壇の上で円陣に12の武将十二神将を従えています。烈しい怒りを表したほぼ等身大の立像で日本最大の十二神将像です。うす暗い本堂に入り対面した際にはあまりにもの迫力に圧倒されました。今回も国宝の仏像を拝謁しながら円陣を三度周りました。撮影禁止ですので画像はありません。

香薬師堂の庭園風景です。紅葉の落ち葉が池に落ち紅葉筏のような様子に心打たれレンズ
向けました。







寺伝によれば天平19年(747)に光明皇后が、聖武天皇の眼病が治るように行基に建立させ、七仏薬師如来を安置したといわれています。かつては七堂伽藍が整った由緒ある寺院でしたが、現在は本堂〔国宝〕だけが残っています。東門・南門・鐘楼・地蔵堂はいずれも鎌倉時代の建造で重文に指定されています。また、境内全体に高畑独特の静かなムードがただよっています。本尊木造薬師如来坐像〔国宝〕とそれを囲む等身大の塑造十二神将立像〔国宝〕が有名です。
この地は、2ヶ月前に訪れています。今回は紅葉と遅咲きの萩が見られ景観を堪能させられました。



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芦屋だんじりの歴史

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