境内に掲げられている奉納の額には
檀林皇后と弘法大師 六はら地蔵尊由来記掲げられています。
人王52代嵯峨天皇(809〜822)の御代、弘法大師(774〜835) 当地に地蔵堂を建立し御自作の土仏の地蔵尊を安置せらる。
ここは鳥辺野の無常所入口にあたり世に六道の辻と謂われます。昔は六つの仏像がありましたが現在は三仏像が残っており、毎年8月の伝統行事「御精霊迎え 」り六道詣りが幾百年も続けて行われています。
弘法大師六道の辻地蔵堂開基の頃、嵯峨天皇の皇后になられた橘嘉智子姫(檀林皇后)がしばしば御参詣になられて弘法大師に厚く御帰依あそばれ深く仏京にさわらしめとの事。
亦弘仁五年(814)皇子正良親王御病の時、当地蔵尊に御平癒御祈願され無事御成長なされ後に目出度く54代仁明天皇(832〜850)の御位におきあそばれたので、世の人々は六道の辻地蔵尊或いは六はら地蔵などと呼ぶようになりました。
と説明されています。
檀林皇后は嵯峨天皇に入内したが、はじめのうちは数多い夫人の一人でしかなかった。しかし妃の高津内親王が廃されると、姻族の藤原冬嗣の後押しもあり橘氏としては初めて皇后に立てられた。
嵯峨天皇との間には正良親王(後の仁明天皇)等3男6女を儲けた。仏教に深く帰依しており檀林寺を創建した。(このことから檀林皇后とも称される。)夫帝の譲位後には皇太后に立てられ、夫帝崩御後には皇太后に立てられた。この時点でもかなりの権勢を所持していたため承和の変にも関わっていたという。
美貌の檀林皇后は深く仏教に帰依していました。そのため諸行無常を体現するために、自らが崩御する際に「自らの朽ちていく様を世に見せるため遺体を放置せよ。」と遺言したと伝えられています。
つまり生前どんなに称賛されようと、死ねば皆朽ちて骨になるということを示したとされます。
この様に「朽ちていく様」を描いたものとして『九相図』というものがあるんですが、このモデルはこの嘉智子皇后という伝説もあります。お盆に公開されますので見させて頂きたいと思いつつまだ実現していません。
京都では300年も500年前も昨日のように話されていることにはなれていまがそれにしても私も京都人の一人として会話に馴染んでいるようです。
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