旅に病で夢は枯野をかけ廻る
その後、義仲公の塚のほとりに草庵を結び供養する一人の尼僧がいた。村人に問われ「われは名もなき女性」と答えるが、義仲公の側室巴御前であった。
鎌倉時代後期の文書に無名庵、巴寺ともいい木曽塚、木曽寺そして義仲寺と語り継がれたと記載されている。
翁堂
義仲公墓
芭蕉翁墓
義仲寺境内は、新緑につつまれ義仲公墓、芭蕉翁墓そして巴塚、山吹塚さらに翁堂無名庵と句碑が建立されこじんまりと整えられ穏やかな景観は古い歴史のあることを感じさせてくれました。元禄7年(1694)10月12日、 芭蕉翁は大阪の旅窓で逝去されたが、「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を南御堂の花屋から東横堀川、八軒屋浜から淀川を1日かけて遡上し京伏見港から大津街道を経由し当寺に運び現在地に墓が建てられています。
芭蕉が木曽義仲が眠る義仲寺に葬られた経緯は、生前芭蕉が死後木曽殿と塚をならべてと語ったことによるもので、芭蕉は源義経や義仲、斎藤別当実盛といった悲劇伝を残した武人や藤原実方などにとりわけ思いを寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れて句を残し、義仲については寿永2年(1183年)4月に平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め、次の句を詠んでいる。
義仲の寝覚めの山か月悲し
義仲寺境内
義仲公墓と芭蕉翁墓
時代は移り、戦国の頃には、当寺も大いに荒廃した。時に近江国守佐々木侯は、石山寺参詣の途次、この地を見て、「源家大将軍の御
墳墓荒れるにまかすべからず」と、当寺を再建し寺領を進めた。貞享年間(1684~1688)に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎としたのは、この頃からである。とされています。
安政3年(1856)の火災、明治29年(1896)の琵琶湖大洪水でながされ、そのため芭蕉の墓碑に傷が残っている。義仲寺はたびたび の改修が行われたが、第二次世界対戦を経て戦後において、寺内全建造物の荒廃その極に達し壊滅に瀕した。
しかし昭和40年(1965)、京都の一教育出版社が一切の経費を負担し朝日堂、無名庵の改築、翁堂の修復をなし、同年の時雨忌に昭和再建落慶の法要を行って現代にも義仲寺が存続し日本の歴史を伝えてくれています。日本文化への知的好奇心が日本人から失せつつある現代、日本文化を後世に継承させることを深度化させねばならないですね。
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