昨年8月に、亡くなった大手の企業で十数年社長を歴任した方の遺稿集編纂のために編集しA4サイズ230ページの本編と150ページの別冊を完成させた際に、発起人の方にまじり偲ぶ思いを書いた際に、亡くなった人は悲しいかな私たち生きているものの中にしか生きられない。そして数多くの残された論文や新聞や雑誌に掲載された活字の言葉の中でしか生きられない。いつまでも亡くなった社長と共に生きていくためにと文学的な表現ですが遺稿集の発刊の趣旨として書きました。
印刷手配した後、数日後にテレビを見ていると新聞の短歌の選者でもある永田和宏氏の妻河野祐子さんの生き様が描かれた番組を見ました。
その番組では、死者は生者のむ記憶のなかにしか生きられない、だからもっとも河野祐子をしっているものとして長く生きていきたいと思う、それが彼女を生かしておく唯一の方法だと思う。と語られて思わず見入りました。
そして歌人夫妻の生き様を知り「たとえば君 四十年の恋歌」を購入しました。歌人夫妻の380首のとエッセイを熟読しました。亡くなった方も入院生活の毎日を克明に記録されていました。たとえば階段を昇り降りしたこと。病状の変化で抗がん剤での治療、そして食事の量、水を何CC飲んだことなど苦痛のため鉛筆の字も乱れても書かれていましたがなぜここまでして言葉として残されたのか不思議でした。亡くなった河野祐子さんもベッドの横のティッシュの箱に薬の袋に短歌を残されていとも聞きました。
亡くなった社長がなぜ文字としてノートに記録を残されたかはこの本を読んで分かりました。私たちが真似することが出来ないことです。
読書は好きですが最近は新刊書を買うことは一切なくなりました。あまりにも商業主義に走り稼ぎのためにの作品や世相にこびた作品がリメークされたもの同じ主題の繰り返しなどそして多く作者が何度もいれ変わっても不自然さもない感がしたからでした。
この本は、言葉を刻み、耕しそして磨き心の奥底に通じるものがあると読み終わって読書の奥深さを感激を久しぶりに得ました。
ブログをはじめての読書に関するテーマです。
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