八十塚古墳。訪れる人も多いのですが山林に埋もれて掲示もなく単なる空き地のように見えることは歴史を知る者としてはまことに残念です。
八十塚とは、1734年(享保19)に編まれた地誌「摂津志」に「打出村西岩平山中有数塚呼曰八十塚」に記載されていることが由緒とされています。
八十塚橋
ドンドン川と古墳の残る山林
八十塚古墳の中心はこのドンドン川の東、八十塚橋の東の山林に3基の古墳の石室が残っています。中を覗いて見ましたが鬱蒼とした山林に見えるのみです。
群集墳が築造され古墳時代後期は挑戦半島から移住集団により持たされた鉄製農機具により農業生産高が向上し富の蓄積が可能となり階層社会化され副葬品に装身具や飲食物を入れて7世紀代には盛んに追葬が行われ古墳が死後の世界の場として家族墓として築造されるようになった時代の古墳です。
八十塚古墳群は、六甲南麓の芦屋市朝日ケ丘町、岩園町、六麓荘の台地上に点在する古墳時代後期の群集噴です。
古墳は東西500メートル、南北1キロメートルの広範な地域に約40基の所在が確認されています。
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