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小説「火垂るの墓」誕生の地 西宮に文学碑完成



平和を願って

  小説 火垂るの墓  文学碑完成

 2020年6月7日13時30分から西宮震災記念公園の一角で野坂昭如著小説火垂るの墓誕生地の碑除幕式が来賓と火垂るの墓建碑委員会委員と西宮在住の方々と関係者が在阪のテレビ局のクルーの方々西宮市のポータルサイトの担当者等およそ100名近くの方が出席し開催された。
 
 地元住民で結成した火垂るの墓建碑実行委員会で2019年夏から建設資金700万円と試算し関係機関に働きかけ地道に寄付金を募り続けた。
2020年6月までには1.450名の個人や団体から寄贈金7907.277円が寄せられた。
    除幕式の6月7日は、14歳の野坂少年が満池谷に身を寄せた日である。


 




除幕式の開会挨拶をする土屋純男委員長

2020年6月7日「火垂るの墓」記念碑の除幕式を行いました。新型コロナウイルスの渦中、関係者のみによる式を計画していましたが近隣の方など約100名の方がお越しいただき除幕を祝っていただきました。
野坂昭如氏の小学校の同級生のご夫人も駆けつけてくださり、副碑(野坂昭如肖像)の除幕をしていただきました。
実行委員会では小冊子『小説「火垂るの墓」誕生の地』を発行し、建碑にご協力いただいた方にお配りしました。
記念碑には御影石を使用し主碑はサクラ御影、周囲は丹波鉄平石台座は2冊の本をイメージし文学碑の雰囲気を出しました。
周辺には「アンネのバラ」を植え、戦争に翻弄された「清太と節子」に癒しを添えました。
思いがけなく高額の賛同者のご協力を頂き、野坂氏の作品の力に依るものと感謝しています。
ご寄付は継続しております。よろしくお願い致します。
土屋純男
委員会委員8名の方による除幕

除幕式とアンネのバラ

アンネのバラのこと
 小説火垂るの墓誕生の地記念碑のそばにアンネのバラが植樹されています。このアンネのバラには戦争に関わる悲しい物語が残されています。
代表土屋純男氏は、アンネ・フランクの願いを受け止め西宮の地に、アンネのバラの教会の解説では、アンネ・フランクはドイツ生まれのユダヤ人の少女です。ヒトラーによるユダヤ人迫害にあい、ドイツからオランダに移りました。その後、アムステルダムの隠れ家で2年を過ごしました。そのとき書かれたのが『アンネの日記』です。アンネは、ドイツ軍にとらえられ、強制収容所で15歳と9ヶ月の生涯を終えましたが、『アンネの日記』を残しています。おとなになるまでにだれもが一度は読んでみるすばらしい日記です。
アンネ・フランクは、日記の中に、「私は世界と人類のために働きます」と、書き残しました。 
 アンネのバラの教会は、彼女の平和と人類愛の理想が、多くの若い人たちに、受けつがれていくようにとの願いをこめてアンネ生誕50周年の1979年計画され、1980年4月に建てられました。アンネの父オットー・フランク氏との交流が、この教会設立のきっかけとなりました。 
アンネのバラの教会の「アンネの庭」一面に咲く黄金色のバラは、アンネを偲んでベルギーで作出された四季咲きの香り高いバラです。「アンネの形見のバラ」(Souvenir d'Anne Frank 1960  Delforge)と呼ばれ、フランク氏の庭でも大切に育てられていました。1972年のクリスマスにフランク氏より友情のしるしとして聖イエス会に贈られて来ました。
戦争で最もひどい目に遭うのはいつも子供たちだ。戦争をしたのは大人の責任であり、今度戦争をしたら私たち大人の責任だ。
戦争で多くの命を失った、飢えに泣いた。戦争は人間を人間でなくす。戦争をしてはならない、戦争は悲しみだけを残す。と野坂昭如の最後のメッセージに込められた願いを後世に残すために火垂るの墓委員会土屋純男氏はアンネ・フランクの訴えに感動し「アンネのバラ」を「火垂るの墓誕生の地記念碑」のそばに植樹し幼くして獄死したアンネ・フランクの、「私は世界と人類のために働きます」と、日記に書き残した思いを伝えることとしています。

        

            アンネのバラの教会 

兵庫県西宮市甲陽園西山町4-7

見学は予約制です。WEBサイト・電話等でご確認下さい。
         📞    0798-74-5911
        Webサイト church◎annesrose.com
        https://ja-jp.facebook.com/annesrosechurch/  



広島県立第一高等女学校1年6組
森脇 瑤子の日記のこと
 1945年8月5日()

学校 家庭修練日

家庭 起床6時 就床21時 学習時間1時間30分  

手伝い 食事の支度

今日は、家庭修練日である

昨日叔父が来たので家が大変にぎやかであった。「いつもこんなだったらいいなあ」と思う。明日からは家庭疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思う。

広島県立第一高等女学校16組森脇瑤子さんの日記最終章である。

高等女学校1年は今の中学1年に当る。その一学期を終え本来なら夏休みに入った翌6日家庭疎開の整理作業中、現在「核弾頭」とあっさり表され、ミサイルとセットになって記号化され、そのもたらす惨禍について想像力の働かない原子爆弾、アメリカ側のニックネームでは「リトルボーイ」によって殺された。

作業に従事していた数で言えば14歳の少女二百数十名、八割が即死、残りの生徒も7日朝までに亡くなった。

森脇 瑤子さんは6日こわされて影ひとつない家庭疎開跡を片付けていたが1キロ先の上空で原爆が炸裂した。多分酷い姿に変わり果てた瑤子さんは10キロ離れた学校の理科室に正午近く収容され、夜死亡した。

当時で言う国民学校低学年以下は事態が判なかったろう。大人たちはまったくの思考停止、あの年の夏、日本全土で天皇陛下のために、お国のために「頑張って」いたのは森脇瑤子さんの世代だけだ。

瑤子さんのように何の罪もない少女の明日を、ひたむきに生きようとする思いを戦争は無残に断ち切る。

戦争を起こしたのは大人だ。大人の償い得ぬ罪と受けとめて当然、しかし今この自覚はない。毎年815日、先の戦争について反省を見せる。まさに形だけ・・・・・・。伝えなかった、僕の世代がいけない。瑤子さんにならっていえば、伝えるべく「頑張ろう」と思っている。

 

出典 野坂 昭如 新編「終戦日記」を読む 中央公論社









 ニテコ池下池

西宮市でははじめての文学碑として5月16日記念碑の設置工事は完成いたしました。
6月7日に除幕式が催されます。戦争を原点に持つ野坂昭如氏の小説の願いは75年前の戦争の記録としても語り告げる文学碑として後世に文学者としての思いは残されることとなりました。                  
完成後には是非記念碑をご覧においで下さい。

活動報告


 2015年12月9日に85歳で死去した野坂昭如さんが戦時中義妹と過ごした西宮市満池谷町での自らの体験を踏まえて創作した代表作「火垂るの墓」に登場する作品の防空壕そして親類宅原点の場所の地が長く明確ではなかった。 西宮市満池谷町在住の土屋純男氏、郷土史家の二宮一郎氏が野坂昭如著「ひとでなし」そして戦時中野坂さんと顔見知りだった清水孝一さんをはじめ当時の日々の暮らしを知る数10人の人々から聞きとり調査し明確にされています。 この取材活動は、小説「火垂るの墓」ここが原点と題して、2016年12月2日 朝日新聞の全国版に掲載されました。 原点の地を調査研究した土屋純男氏、二宮一郎氏は、野坂昭如さん功績や戦争の記憶を後世長く継承させたいと願い「火垂るの墓」記念碑建碑実行委員会が結成されました募金活動の結果、西宮市から許可を頂き西宮震災記念公園に文学碑設置の承認を頂き、多くの方から暖かいご支援を得て「小説火垂るの墓文学碑建設資金」の目標金額は達成されました。今後の計画について、新型コロナウイルス感染症蔓延のため対策は慎重に検討されています。
土屋純男氏談

火垂るの墓誕生の地 記念碑建立活動について


新聞テレビ等報道関連記事一覧表を作成いたしましたのでご参考までに掲載いたしました。



小説火垂るの墓誕生の地 記念碑」建立関連 

新聞テレビ等報道関連記事

 

Ⅰ 除幕式以前

 

・火垂るの墓 舞台変わらぬ、面影失せて歩いて。野坂昭如さん紀行、戦跡をたずねて  ④完        (朝日新聞 阪神版 2015.8.16)

・野坂 昭如さん死去火垂の墓舞台の神戸・阪神間 戦争を語る役割担った。 

       (神戸新聞2015.12.11)

・火垂の墓の舞台 野坂氏をしのびつつ 街角のまなび場 

(毎日新聞兵庫版 2016.8.8)

・火垂の墓 ここが原点  (朝日新聞 2016.12.2)

・野坂昭如のウソとマコト 火垂の墓舞台調査 (産経新聞 2017.2.8)

・突きとめた火垂の墓の舞台 あの兄弟は、ここにいた 

       (朝日中高生新聞  2017.6.4)

・神戸大空襲から72年 火垂の墓防空壕跡 見た  (朝日小学生新聞 2017.6.5)

・火垂の墓のほとりで  (朝日新聞2018.3.2)

・火垂の墓を歩く会 次世代よ思い継いで参加者増・・・運営は高齢化

       (毎日新聞 三田・阪神版 2018.8.22)

・文学逍遥 火垂の墓 染みる弱者への眼差し (毎日新聞 2019.7.6)

・火垂の墓の舞台解説 戦争の惨状を知る講座 

(神戸新聞阪神版 2019.8.8)

・火垂の墓記念碑設置を 住民らが記念碑設置 寄付募る 

(神戸新聞阪神版 2019.8.16)

・火垂の墓誕生の地に刻む 

(毎日新聞阪神版 2019.8.15)

・火垂の墓記念碑建立 募金運動西宮で始まる (兵庫民報 2019.9.22) 

・火垂の墓 作家たたえた碑 河内厚郎文化回廊 (毎日新聞阪神版 2019.10.14)

・作家野坂さんと神戸、反戦平和を訴えた地 (新潟日報 2019.10.18)

・大石画伯の絵 回生病院に 小説火垂の墓が縁結ぶ 

(神戸新聞阪神版 2019.10.21)

・名作の舞台に思いをはせ 河内厚郎文化回廊 (毎日新聞阪神版 2019.10.21)

・火垂の墓舞台 西宮の防空壕近くに記念碑建立 (日本経済新聞電子2019.11.4)

・火垂の墓舞台を歩こう わがまち22    (神戸新聞阪神版 2019.11.15)

・火垂の墓記念碑が完成 戦後75年の節目 7日に除幕式 

(神戸新聞阪神版 2020.6.4)

 

Ⅱ 除幕式以後

 

・火垂の墓西宮に誕生の碑    (朝日新聞阪神版 2020.6.8)

・火垂の墓記念碑除幕 西宮住民ら80人 不戦願う (読売新聞阪神版 2020.6.8)

・火垂の墓記念碑 平和への祈り込め除幕 (神戸新聞阪神版 2020.6.8)

・正平帳 (神戸新聞 2020.6.9)

・火垂の墓記念碑完成 戦争の記憶語り継ぐ  

(毎日新聞 三田・阪神版 2020.6.17)

・ビブリオエッセー 火垂の墓 (産経新聞 2020.6.18)

・清太と節子に誓う平和 火垂るの墓の舞台西宮に記念碑 

      (北日本新聞  2020.7.4 共同通信社)

・清太と節子に誓う平和 火垂るの墓の舞台西宮に記念碑

      (中日新聞 2020.7.4  共同通信社)

・野坂さんの思いを後世に 地元神戸に小説火垂るの墓記念碑

      (夕刊フジ 2020.7.7  共同通信社)

・火垂るの墓 思い継ぐ 小説の舞台ら西宮に記念碑 戦争起こさない住民誓う

      西日本新聞 2020.7.7  共同新聞社)     

・西宮市に火垂るの墓記念碑完成清太、節子、野坂昭如が過ごした防空壕近く

      (兵庫民報 2020.7.12 )

・火垂るの墓後世に 西宮記念碑が完成

      (産經新聞 2020.7.12  共同通信社)

・野坂さん火垂るの墓記念碑に

      (日本経済新聞 2020.7.16共同通信社)

・平和の尊さ感じる場に 火垂るの墓記念碑 西宮

      (読売新聞 2020.8.15)

 

除幕式報道 テレビニュース番組

 

・イット カンテレ 2020.6.7 17:30  18:00

・ニュースSUNデー サンテレビ 2020.6.7 18:00  18:30

JNNニュース MBS  2020.6.7  23:12

・あさチヤン!    MBS  2020.6.8  6:00〜 7:00

 

火垂るの墓文学碑 除幕式報道後 テレビニュース番組

 

・報道アーカイブ サンテレビ 2020.8.9 20:0021:00

   炎の証言 神戸空襲 継承への警鐘 戦火に包まれた神戸の惨事を伝える 

野坂昭如氏のメッセージ 2015. 8. 9放送 戦後70年特番 再放送

・ほっと関西 NHKTV  2020.8.18 18:1018:45

    火垂るの墓の痕跡を探して 戦争のは記憶を後世に

NHKニュースウオッチ9 2020.8.19  21:0022:00

    失われる戦跡 火垂るの墓の舞台の記憶を残す






火垂るの墓文学碑建立予定地


 「火垂るの墓」記念碑建碑実行委員会は、去る2月28日西宮震災記念公園に火垂るの墓文学碑建立のための整地工事を実施いたしました。





小説火垂るの墓誕生の地文学碑建立工事報告


 2020年5月12日西宮震災記念公園に午前7時には、大型クレーン車2台そして石碑と工事用資材を積載した大型トラックが3台到着後、工事用の整理作業後台座となる書籍をイメージした御影石と、作者野坂昭如を紹介する写真銘板と野坂昭如の戦後体験の写真銘板等がクレーン車により設置場所に取り降ろし、小説火垂るの墓誕生の地の文学碑建立工事が開始されました。
 その後、工事は大型クレーンを使用して慎重に据付作業が実施され小説火垂るの墓誕生の地の銘文と金属製の写真銘板が取り付けられた5トンの御影石の主たる碑が大型クレーンで台座に大寧に据えられて12時30分過ぎに設置が管理完了しました。
​その工事の状況を画像により掲載いたしました。
西宮市でははじめての文学碑として6月に除幕式が催されます。
後世に75年前の戦争の記録を語り告げる文学碑として存在することでしよう。
多くの方の訪問をお待ちしています。













お知らせ

 新聞に報道されたその後、全国の人々にこの場所を知って頂き文学ファンの聖地となって文学周遊のため訪問してほしい。と願い2017年12月に両氏が発起人となり「火垂るの墓」記念碑建碑実行委員会が発足し記念碑建立のため寄付を募っています。
どうぞ皆様のご協力をお願いいたします。 実行委員会では、全力をあげて活動しています。この記事を読まれた方は是非ご協力くださいますようお願い申し上げます。 実行委員会では、全力をあげて活動しています。この記事を読まれた方は是非ご協力くださいますようお願い申し上げます。

 募金活動は令和元年12月締切と記載していますが、建立予定時期の令和2年6月まで延期させて頂きます。多くの方の御支援をお待ち申しあげます。なお、除幕式は2020年6月7日に行います
土屋 純男

 拙作ですがこのフログは、できるだけ更新して、作品の魅力をそして情報を書き加えて火垂るの墓文学碑建立のために寄与させたい。と追記し続けています。このブログをお読みして頂き、ユーチューブやFacebookを見て頂き御理解頂きくして文学碑建立のために多くの方のご協力をお願い申し上げます。
 製作途上ですが火垂るの墓ホームページとリンクページ等も御参考にしてくだされば幸いです。                                               Kousei.Hata


    西宮満池谷における野坂昭如著火垂るの墓文学碑建立

    火垂るの墓建碑委員会


    

小説火垂るの墓 作品の背景、調査研究のこと


 野坂昭如さんの小説のフアンで満池谷町に住む実行委員会代表の土屋純男さんらが2016年に野坂さんの親類を訪ね歩いたり近所の人々への聞き込みをして舞台となった満池谷を歩いた。その結果小説に描かれた防空壕や親類宅等の場所が特定された。
 その結果、記念碑を建てようと2017年12月に実行委員会が設立された。
 実行委員会のメンバーで土屋さんとともに調査された二宮一郎さんは「全国の人々にこの場所を知ってほしい。ファンの人の聖地となって訪れる人が増えて欲しい」と語っている。
 土屋さんは先ほどの戦争が風化してきている。野坂さんの原点となった土地に碑を建てることに意味がある。碑を見て悲しい体験や戦争の不条理、愚かさがあったことを思い起こしてほしいと語られた。                 
 

            

趣旨


「火垂るの墓」は野坂昭如氏が自己の戦争体験を踏まえ執筆し、1968年に第58回直木賞を受賞した小説です。その舞台となったのが西宮市満池谷町です。
 小説を原作とした映画にも登場し広く知られています。戦後75年を前にして戦争の悲惨さを語り継ぎ、現在と未来の子供達への恒久平和を祈念して建碑を実現したいと思います。

           あなたの思いを記念碑に

    建立時期 2020年6月頃
 建立場所 西宮震災記念碑公園内
 募金   令和元年12月まで
 個人 1口   1.000円 
 団体 1口   10,000円


               振込先

振込先ゆうちょ銀行   口座記号番号 00930-4-334241
火垂るの墓募金専用のゆうちょ銀行「振込取扱票」を用意しています。委員会までご連絡下さい。火垂るの墓記念碑建立趣意書とゆうちょ銀行「振込取扱票」をお送りさせて頂きます。
ゆうちょ銀行以外の金融機関から振込みを頂く場合、下記の口座へお願いします。
この場合、振込手数料の負担をお願いします。
ゆうちょ銀行【支店名】四三八(ヨンサンハチ)【預金種別】普通預金
【口座番号】8807828【口座名】ホタルノハカイインカイ

「火垂るの墓」記念碑建碑実行委員 代 表 土屋 純男 Tel 0798-73-1853
                    事務局 二宮 一郎 Tel 090-3824-2468 






           
 記念碑のイメージ図。高さは2.2メート




                                     文学周遊  小説 火垂るの墓 

    14歳の清太と4歳の妹節子がともに生きようと思った


 太平洋戦争末期の1945年神戸御影で空襲で生き延びた14歳だった昭如昭如は幼い妹とともに西宮市満地谷町の貯水池ニテコ池のそばにある親類宅や防空壕で過ごした。西宮市も5回の空襲を受け市街地の大部分が消失した。小説「火垂るの墓」は、野坂昭如さんの実体験を基に創作されている作品である。この作品は太平洋戦争が激化した2ヶ月前に米軍の大規模な空襲により被災し生き延びた幼い二人が不条理な状況下で懸命に生きるために現代社会にも通じる教訓が秘められた物語である。
 この作品は、特定の国を除いて海外でも評価されていように戦争文学ではなく普遍性のある人が生きるという行為をテーマとして物語としてまたアニメ映画に映画そしてテレビでも映像化されて現代も世界的に高く評価されている作品である。
 小説 火垂るの墓から清太と節子の生き様を描いた描写から作品の舞台となった場所を記録し 14歳の清太と4歳の妹節子が共に生きようと思ったゆかりの場所とともに表現した。


火垂るの墓の序章は、省線三ノ宮駅構内浜側の化粧タイルが剥げ落ちたコンクリートむき出しの柱に背中をまるめてもたれかかる数多くの浮浪児の一人に、床に尻をつき両脚をまっすぐ投げ出して痩せこけた清太が住み着き、母の形見の長じゅばん、半襟、腰紐を古着商に売り老婆の憐れみと食べ残しのパンをありがたくいただき半月ほど食いつないだが根が生え腰が抜けた。ひどい下痢が続き、駅の便所にもはいずる力もなく行くに困難となり果てた。


 次第にもはや飢えはなく、渇きもない、重たげに首を胸におとしこみ円柱をまるで母とたのむように持たれかかりすごしたいたが清太はその座ったままの姿でくの字なりに横倒しになったとは気づかず、何日なかやろな何日やろかとそれのみ考えつつ清太は衰弱死した。

清太の実家跡付近 神戸市東灘区


  神戸市上中公園

上中交差点

 1945年6月5日神戸はB29、350機の編隊による空襲を受け葺合、生田、灘、須磨および東神戸の五箇町村は焼き払われた。
 御影の自宅で待機していた。裏庭に掘った穴に火鉢を埋め台所の米卵鰹節バター干鰊などを納めて節子を母に変わって背負い母を防空壕に避難させた。自宅に戻ると凄まじい落下音に包まれた。青色の五センチ長さ60センチばかりの焼夷弾が油脂を撒き散らした。
 清太は、一旦玄関に飛び込んたが家の中は黒煙が吹き出していた。とにかく母のいる防空壕へと歩き出すと、にわか雨のの如き落下音に軒端を走る火や炎では視界は暗くななり大気が熱せられ清太は怯えながら突き飛ばされるように母の「節子と一緒に逃げてと頂戴、お母ちゃんは自分一人なんとでもします、あんたら二人無事に生きてもらわなな、お父ちゃんに申しわけない、わかったね」
 と言った言葉を思い出しながら走り出し石屋川の堤防沿いの道に逃げる定めであったが避難するひとでごったがえしじれったくなり海へと向かった。その間にも火の粉が流れる、落下音にも包まれた。節子とともに灘五郷の酒蔵のある潮の香りが漂う海岸まで逃げ砂浜の漁船を巻き上げる櫓のの陰に身を寄せた清太は西へと逃れた。

阪神電車の高架

阪神電鉄御影駅 湧水 沢の井

阪神電鉄 石屋川駅

石屋川河口

石屋川と御影公会堂

神戸 御影公会堂
焼け野原になった御影の街にもどり母との待ち合わせ場所である御影公会堂の裏手にある二
本松へと向かうが母ととは会えることはなかった。



御影小学校 作中の御影国民学校
  
 清太が包帯で全身を覆われた母を見つけた小学校は御影駅付近の御影小学校がモデルとなっています。
 ここには昔の姿のままの南門が残されていました。

上中交差点
原作者である野坂氏の実際の母校は六甲道にある成徳小学校で、清太たちの生家も著者自身の生家よりやや南側に設定したのだとされています。


一里塚橋

 母と会えず国道で自転車の乗った警防団の男がメガフォンで何か怒鳴っている「御影国民学校へ集合してください。上西、上中、一里塚のみなさま」と清太の住む町名を呼ばれ母は学校に避難しているかもしれないと節子の世話をしながら六年間学んだ校舎へ行列を離れ医務室へ向かい町内会長の大林さに会い母のヒスイの指輪ほ見せられた。母は上半身をほうたいでくるみ、両手はバットの如く顔もぐるぐるまきに巻いて眼と鼻、口の部分だけが黒い穴が開けられ昏睡状態となった母と対面する。「お母ちゃん」低く呼んでみたが実感がわかず行程で待っている節子の事が気になり校庭にでた。
「お母ちゃんはどこにいるの」と節子に聞かれ母の指輪を渡し母は西宮の病院にいる。今日はここで泊まり明日西宮のおばちゃん知っているやろ。池のそばの、あしこへ行こ」と語りかけた。
「うちら二階の教室やねん、みんないてるからきいへん?」茶色い袋の乾パン二つ持った娘が戻ってきたが、後でいきますと、両親そろっている家族ら立ちまじれは、節子がかわいそうで、というより清太自身泣き出すかも知れず「食べるか」、「お母ちゃんとこいきたい」「あすならなもうおそいやろ」と節子の悲しい思いを清太自身の悲しみを隠して優しく受け止めた。

             
 6月7日一王山の下で荼毘に付すという母親の遺体を担架に乗せて搬出され座席を外したバスにそのまま一列に並び乗せられた。一王山下の広場には径十米程の穴、そこに建物疎開の棟木や柱等の材木がせ乱雑に摘まれていてその上に遺体を置き警防団員が重油の入ったバケツでたたきつけ火をつけるとたちまち黒煙をあげて燃えさかる。かたわらには白布背をかけた机の上には粗末な木箱が置かれていた。夜になって配給を受け取るように消炭で名前記したきばこの骨渡され標識がどれほど役に立ったものやら、黒煙のわりに真白な指の骨が入っていた。
    夜更けて骨箱を持ち西宮の家にたどり着き、「お母ちやんはくまだキイキ痛いのん?」「うん、空襲で怪我しはってん」「指輪もうせえへんのかな、節子にくれはったんかやろか」母の白い骨に指輪をはめたさまを思い浮べて慌てて打ち消し「それ大事なんやからしもとき」とおはじきと指輪で遊ぶ節子に語っていた。




一王山十善寺







清太と節子が疎開先の叔母さんの家を出て、行李、布団、蚊帳、台所道具と母の遺骨と持ち出し住み着いた。作品では二人だけの生活をはじめる土の防空壕はニテコ池下池の堤防から少し下ったところにあった。



ニテコ池下池

満池谷町の家並みと ニテコ池の築堤
満池谷町

ニテコ池

ニテコ池下池の土手 作品ではこの近くの防空壕で過ごしたと描写されている。

ニテコ池下池




城山の麓 作品ではこの付近一体は丘であった。


満地谷町
西宮市満池谷町は谷と谷の挟まれた集落ですので、至るところに写真のような階段がある。この場所はアニメのシーンではよく登場している。

     夙川の流れ 
野坂昭如氏が神戸で神戸の大空襲ではおよそ3,000トンもの焼夷弾が落とされたとされている。この空襲にあったのは、中学三年であった。神戸市立第一中学校に在学していた。6月5日に焼け出され、西宮市の満池谷にあった遠縁の家に身を寄せたのは3日後のことだった。大八車を借りて、御影の焼け跡から庭に埋めた食糧や酒、衣類などを掘り起こしそれを汗水みずくとなって引いていったが、夙川の堤防にたとせりついたとき、すでに日が暮れかたわらを流れる小川のせせらぎと、おびただしいほたるの群に生きているという実感がつよく迫った。と野坂昭如は回想している。
 現在はのどかな桜の名所としてしられ美しい景観で多くの人に親しまれている夙川は75年前には食料難のため堤防のあちこちに野菜が植えられていた。多くの人が米軍の空襲で傷つき逃げ惑う場所でもあったことをこの作品に登場している。

夙川橋
夙川橋です。この橋は夙川に架かる阪神国道(現在の国道2号線)の橋で、当時は路面電車が走っていた。 

阪急夙川駅
火垂るの墓では京阪神急行夙川駅

ラ・パボーニ


小川に出て海へ向かうと一直線に走るアスファルトのところどころに馬が止まっていて疎開荷物を出している。神戸一中の帽子をかぶり眼鏡をかけた小肥りの男がむずかしそうな本を両手いっぱいにかかえて荷台に置き馬はただものうげに尻尾をはねかえしている。
右へ曲がると夙川の堤防に出て、その途中に「パボーニ」という店、サッカリンで味をつけた寒天を売っていてるから買い食いした。と登場している。当時のパボーニは、1995年1月の阪神淡路大震災で倒壊したため、その面影はなく現在は更地になっている。

「阪神間の夙川に地上に存在していることが奇跡ともいうべき美しい喫茶店」と言わしめたパボーニ跡です。現在その場所はシンボルだった2本の棕櫚の木が残っているだけだが、店は大阪・堂島で受け継がれている。



パボーニの跡(2019年10月)




北新地パボーニ 
西宮夙川で大石輝一が開いたカフェサロンは阪神大震災で倒壊したが、北新地堂島に受け継いだ隠れ家気分のカフェ&パブが、テーブルや椅子などの家具がそして保存されていた絵画、資料等を引き継ぎかっての夙川と同じような形態で営業を続けられています。


葭原橋

葭原橋

葭原橋

清太は、節子のひどい節子の汗もが気になり、たしか海水でふいたら直るはず、節子は子供心にどう納得したのかあまり母を口にしなくなり、ただ兄にすかりついて、「うんうれしいな」とこたえた。


清太は節子をつれて夙川の堤防はすべて菜園になっていたて、南瓜や胡瓜の花が咲き、国道までは人影はほとんどなく、国道に沿う木立の中には、本土決戦のため温存の中級練習機が、申し訳ばかりの偽装網まとってひっそりとしている。



香櫨園浜 


御前浜の海岸砂浜で清太と節子たちは海水で体を洗い過ごした。やがて空襲警報のサイレンが鳴り、清太と節子はあわててニテコ池の防空壕に帰るために砂浜から街の方向に向かう。ふと南へみると、機雷投下のB29が大阪湾の沖を低空飛行していて、もはや目標を焼き尽くしたのか、大規模な空襲はこのとこ遠ざかっていた。

 




西宮回生病院(改築前2014年10月撮影)
西宮回生病院の前を通りかかると、病院の若い看護婦が、面会に来た母親と病院の玄関の前で対面する描写がある。
海辺から警報がでたから戻りかけると、回生病院の入口でふいに「いや、お母さん」と若い女の声がひびき、みると信玄袋かついだ中年の女に看護婦が抱きついていて、田舎から母親が出てきたものらしい、清太はそのありさまぼんやりながめ、うらやましさと、看護婦の表情きれいなんやと半々にながめ、「待避」の声にふと海をみると、機雷投下のB二九が、大阪湾の沖を低空飛行していて、もはや目標を焼きつくしたのか、大規模な空襲はこのところ遠ざかっていた。  
と文中で描写されている。野坂昭如もここでこのような光景を見たのであろうか。



現在の西宮回生病院(2019.11撮影)

現在の西宮回生病院(2019.11撮影)
西宮回生病院は、明治40年開設以来、戦争や震災も経て長い間、阪神地区の地域に人々に親しまれてきた病院です。映画「火垂るの墓」で紹介された病院のシンボル的なドーム型の正面玄関を含めた旧病院の建物は地域の皆さまに惜しまれつつ平成28年(2016年)に新しい病院として生まれ変わっています。



石屋川 火垂るの墓文学碑




この作品のエピローグは
小説から引用すると、
清太は、節子を抱いて山を登り、市役所へ頼むと、火葬場が満員で木炭一俵の特配を受け市役所の係員のすすめで、満池谷を見下ろす丘に穴を掘り、清太は行李に節子をおさめて、人形、蟇口下着をまわりにつめ言われた通り大豆の殻を敷き枯れ木を並べ木炭をぶちまけ上に行李をのせ硫黄の付け木ら火をうつしほうりこむ。と節子の亡骸を荼毘にふした。夜更けに火が燃え尽き骨を拾うにも暗がりで見当がつかずそのままかたわらに横たわった。周囲はおびただしい蛍りむれ、だが清太はもう手にとることもせず、これやったら節子もさびしないやろ、蛍がついてるもんなあ、上ったり下がったりついと横へはしったりもうじき蛍もおらんようになるけど、蛍と一緒に天国へいき。暁に目ざめ白い骨、それはローセキのかけらの如く細かくくだけていたが、集めて山を降り、未亡人の家の裏の露天の防空壕のなかに多分、清太の忘れたのを捨てたのだろう、水につかって母の長じゅばん腰ひもが丸まっていたから、拾い上げ、ひっかついで、そのまま壕にもどらなかった。
 昭和20年9月22日午後、三ノ宮駅構内で野垂れ死した清太は、他に二、三十人はあった浮浪児の死体とともに布引の上のてらで荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂へ納められた。
「火垂るの墓」タイトルの由来やその意味を考えますと、印象に残るのは妹の節子が火垂るの墓をつくることです。清太と節子は、おばさんの家を離れて横穴で2人暮らしを始める。近くの水辺で、ホタルをたくさん捕まえてバケツにためておき、夜になったら、蚊帳の中でそのホタルを放す。蚊帳の中は蛍でいっぱいになって、とってもきれいだねっていう会話がある。話がある。だがその翌日に、蛍の死骸やたくさんあります。死んでしまった蛍たちのお墓を節子が作った。三ノ宮駅で栄養失調で衰弱死した清太は着衣の中から小さなドロップ缶を見つけ出し持て余したようにふるとカラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼け跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がへほうり投げ、落ちた拍子にその蓋がとれて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた蛍がおどろいて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。蛍の光は幼い兄妹の命の輝きであっ
   作者の秘めた「戦争をしてはならない。巻き込まれてはならない。戦争は何も残さず。悲しみだけが残るんだ」と深い意味のあるメッセージが蛍の光にこめられている。
 これは野坂昭如氏自身が、タイトルを考慮した際、古語に「火垂る」、火が垂れる、つまり空襲、そして死とすぐ「墓」とつづいた。と語っている。
 この作品は、戦争の悲劇と厳しい現実をとひととき忘れさせる螢のイメージの物語りである。
 古語の火垂るについては、貝原益軒大和本草巻十四で螢火について解説されている。ホハ火ナリタルハ垂也下體光ル故名トス大小二種アリ山中ノ川ノ邊ニ多シタ勢田宇治ニハ螢火多クノ,之ルニ螢火事和漢メツラシ五月ノ節ノ前後旬日ノ間盛ニ出ッ小雨フリテクモル時殊ニ多シ勢田ハ早ク宇治ハヲソシ螢火丸方本草網目ニノセタリ其シルシアル事ヲイヘリフカシ詩經ニタル宵行イヘリ宵行ハ即螢也又〇一種水螢アリ本草ニ見エタリ夜光アリ。と解説されている。

野坂昭如が通学した小学校 現在の成徳小学校




野坂昭如氏が住み戦災にあった町、現在の中郷町風景

 野坂昭如氏は、昭和5年(1930年)新潟県副知事相如の子として鎌倉で生まれたが張満谷(はりまや)家へ養子となり神戸市灘区で育った。彼が通学した小学校はなだく備後町の成徳小学校である。
 昭和5年(1945)6月5日の空襲で自宅を全焼養父を失い養母節子は大火傷を負う。1歳4カ月の義妹恵子と西宮の親戚に預けられ餓えた恵子はよく夜泣きしたので頭を小突いて黙らせたという。
 その後、福井に疎開しそこで恵子は1歳6ヶ月で他界した。この体験が「火垂るの墓」の原点となっているが、野坂昭如は「とにかく何でもいい正直に書きたいと思った。贖罪の意識が書かせた作品だという思いが強いですね。あの作品に出てくるほど僕は妹に優しくなかったから。」と語っている。
 

 小説はあくまでフィクションであり作者が最も訴えたかった自らの経験から、 74年前の夏、幼い14歳の清太と4歳の妹節子が共に生きようと思ったが食事もとれず衰弱し命を閉じた戦争の悲しい物語であることからも考えられる。
 しかし悲しいかな現代社会では世界のあちこちで戦争が政争が絶えずこの物語となんら変わらない状況で命をなくす女性がそして子供達が存在していることをも知ってほしいものである。

参考文献 引用文献
   火垂るの墓 アメリカひじき 野坂 昭如著  新潮社
   火垂るの墓 記念碑建立説明会資料 代表 土屋 純男
                                        






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