富田林「じないまち」は、16世紀の戦国時代永禄初年(1558-1561年)本願寺一向宗京都興正寺証秀上人が南河内一帯を支配していた守護代美作守安見直正から富田の荒れ地を銭百貫文で購入し興正寺別院の御堂を建立し、上人の指導のもと近隣4か村の庄屋株が中心となり開発が行われ、町全体を仏法の及ぶ空間寺院の境内と見なして信者らが生活をともにする宗教自治都市「じないまち」が誕生しました。
初期の「じないまち」は外周に土塁を巡らせ堀割もあり、させらに木戸門も構えられ夜間は閉鎖され治安を守っていた。町は東西400メートル南北350メートルで興正寺を中心に整然と並ぶ六筋七町で宅地や畠等が配置されていました。現在の富田林町に該当するとのことです。
この寺内町は、江戸時代中期まで、農村部における商業の中心在郷地として酒造、河内木綿、材木商、農機具商、油商が盛んで、街道の発達、石川の船運により南河内の富はすべて富田林に集まる。といわれるほど繁栄を遂げました。そして現代も500年前の町の面影が残っています。
大阪阿倍野橋から近鉄電車で30分の地に戦国時代の面影が残されています。次回は時間
かけてゆっくり撮影したいものです。
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