酬恩庵一休寺の元の名は妙勝寺で鎌倉時代に臨済宗大應国師により道場が建てられた。元弘の変(1331年)に戦火にかかり廃寺となったが、宗祖の遺風を慕って一休禅師が廉正年中(1455年)に堂宇を再興し師恩にむくいる意味で酬恩庵と命名した。大徳寺住職となってもここから通われ禅師はここで晩年を過ごし88歳の高齢で示寂された。禅師が過ごされたことにより一休寺の通称で知られるようになった。
総門
酬恩寺方丈
方丈には等身の一休禅師木像が安置されている。頭髪と髭は自らのものを植付けられています。残された肖像画とそっくりの姿が見られます
酬恩庵という平穏の庵を再建したことから、一休さんを慕う文化人が多く酬恩庵を訪れました。茶の湯は、村田珠光、やがて武野紹鴎を経て、千利休へと受け継がれ、利休によって「茶道」が開花したといえましょう。
一体寺には、この村田珠光の作と伝えられる庭が残されている。能楽の方では、観阿弥、世阿弥がつくりあげた能楽の思想と芸風を受け継ぎ、さらに発展させていった金春禅竹がいる。一休さんの作ともいわれている能の「江口」や「山姥」に禅竹が節づけしたともいわれている。
連歌の柴屋軒宗長と一休さんの交遊も有名です。そのことは、『宗長手記』『宗長日記』にうかがい知ることができる。宗長は、一休さんに心酔し、酬恩庵近くに庵を構え、常に六、七人の仲間が集まり、田楽をつつきながら連歌を楽しんだ風流人でした。財力があったとみえて、寺の改築にも多額の寄進をしている。ひところ一休寺は雅人による室町文化の芸術サロンといったものを成しまさに今に伝わる日本文化の原点がここで生まれた。また、俳詣の山崎宗鑑、絵画の曾我蛇足らも、一休さんを慕って訪ねてきた人たちです。
方丈庭園
虎丘庵と一休禅師墓所 (非公開)
一休さんがが晩年に盲目の美女と同棲をしたらしいことは、広く知られていよう。水上勉の『一休』では、77歳から88歳までの10年間ほどを、一休さんは森女を愛し、森女もまた、一休に尽くして供養しつづけた。
むろん実際のことはわからない。『狂雲集』には「住吉薬師堂並びに叙」のあたり、ずらりと森女を詠みこんだ漢詩が並び、しかも森女との合体は、一休にとっては一休が考える仏門全域の本来の面目との合体だったようなのだ。
「狂雲集」一休和尚の生涯に作られた漢詩集『狂雲集』はほとんどが七言絶句で、狂雲とは一休さんの号である。この傑僧の愛欲と時代への憤りに貫かれた八十八年の生涯を、これらの作品を通観することで完璧に知悉することができる。なまはんかな訳知り顔の解説や小説では一休宗純を捉えることができない一休さんの実像を本書で具体的に理解することができる。
おそらく一休さんは森女にいっさいの菩薩を見たのであろう。一休さんが大悟しているのではなく、一休こそが森女によって導かれていることを知ったのであろうか。
応仁の乱の頃、森女は鼓もって旅していた。盲目の女性が生きる術は、遊芸に携わり、三味線などをならして歌舞の技を売り歩いていた。それ等の女芸人を瞽女といわれ、森女もそのひとりであった。
森女は激化する戦乱で男たちに弄ばれ、年もはや三十路に達したとき、一休和尚とめぐりあわれ、森女を自分の庵に入れて、語りあったのであろう。彼女を再び戦乱の港に放ち返すつもりがなかった。ごく自然のなりゆきだった。つまり、一休は、一目みて捨てられなかった。一休和尚の傍らに起居していくうちに、老梅に花が咲いたのだろう。森女は盲目ながら一休のために、極少な針の穴に糸をとおし、針仕事もしたという。森女はめくらで闇をみていたが、じつは、普通の人々よりも、世の中がよく見えているかもね。誰が八十近い爺様に三十路の美人に慕われてよろこばぬ人がいようぞ。
戒律にわずらわせる宗教人ではなく人間的な、あまりにも人間的な自由な生活を愛された態度に敬服せざるをえない。
一休禅師像
御廟所 墓所
一休さんは大徳寺に寺には住まず都のはずれにある小さな庵から通っていたという。1479年(文明11年)大徳寺再建の2年後、11月7日、病重く、水も喉を越さず。
借り置きし 五つのものを 四つ返し 本来空に 今ぞもとづく
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