芦屋打出の海岸近くに阿保親王塚古墳(4世紀前半)、金津山古墳(5世紀後半)、打出小槌古墳(5世紀後半)の変遷がたどられます。大型古墳は前方後円墳から帆立形、方墳へと形が変わり、規模も縮小化しますが、その中にあって、この芦屋の古墳は阪神間でも最大クラスの大きさになっており、古墳時代中期、倭の5王の一人、雄略天皇の頃には、芦屋地方の豪族が阪神間にあって、著しく勢威を強めていたことがわかる。
この古墳は江戸時代には田地となり埋没していたが1999年に住宅開発の土器等が発見され碑が建てられ跡地として記録されることになった。
西国街道沿いには多くの古墳があったことは記録されているが、開発のため保存されることなくほとんどが破壊されている。
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