2015年8月11日

文学周遊 井原西鶴 終焉の地を訪ねて

江戸時代の元禄年間に・大坂で上方文化が栄え元禄文化と呼ばれ文学も浮き世草子の登場により革新期に入った。その一人井原西鶴についての記事です。


 現代の鎗屋町
大阪の郷土史家牧村史陽氏によれば、井原西鶴は鎗屋町二丁目骨董屋町筋付近で青年時代を過ごしたとされ御祓筋との東南角に西鶴の母屋や住居があったと推定されている。
 また西鶴終焉の地とされるのが谷町三丁目付近から南に下り鎗屋町筋と交わるあたりの東側とされであるとされている。
 17世紀の世界文学にこれほどユーモアに満ちた文学は見当たらず西鶴の作品は世界的な文学として評価され認められている。また西鶴はリアリストとしても知られ同時代の近松の場合は家のため苦界に身を沈め好きな男のために心中するというロマンが描かれているが西鶴は人間における人間らしさを描いている。これは典型的な良妻だったおさんがいったん茂右衛門と関係を持ってしまうと狂言心中し見せかけて逃亡しようとする。この情熱は女性の心に潜んでいるのだと西鶴は伝えたかったのだろう。
 その描きかたも現代小説のような登場人物と読者の距離が全くないのではなく西鶴の作品では読者はどこか遠くから登場人物の行動を眺めているだけである。現代小説では見られない視点で高度な表現技術であり未だに現代の作家には描ききれない構図となっている。
 代表的な作品「好色五人女」は女性の自由な恋がままならぬ江戸時代の物語であるとしても一世一代の恋に破れた時、思わず死にたくなったり出家したくなる気持ちは男でも女でも恋愛の自由な今も変わらないであろう。勿論実際に実行する人は少ないとしても西鶴の描いた世界はたしかに現在にも存在している。そして現在も小説では取り上げられている。
 参考として西鶴の時代の好色とは「美しい好ましい色」「異性間の交遊を現す言葉で」現在のしようされる意味とは全く異なる。ことを附記したい。
 1993年西鶴没後300年を記念して谷町三丁目の歩道上に「西鶴終焉地・西鶴辞世碑」が建立された。


此界隈井原西鶴終焉之地碑

「此界隈井原西鶴終焉之地」と角石柱に記されている。
石碑にはこのように刻まれていました。

難波俳林松寿軒西鶴 
辞世 人間五十年の究り
それさへ我にあまりたるにましてや
浮世の月見過ごしにけり 末二年 
          元禄六年八月十日五十二才

1968年ユネスコにおいて井原西鶴が世界偉人の1人に選ばれた事や、「大晦日さだめなき世の定めかな」と井原西鶴の俳句が彫り込まれています。
十日井原西鶴はこの地谷町三丁目(旧錫屋町)東側で没した。享年五十二歳。西鶴没後三百年を記念して、この碑を建てる。

平成五年九月二十五日

西鶴文学会


 西鶴は没年から逆算して寛永19(1642)頃に生まれた。父母妻子の名前は定かではない。伊藤梅宇の書いた随筆「見聞談業(けんもんだんそう)」では「貞亭元禄の頃摂大坂津平山藤五ト言フ町人アリ有徳ナルモナレルガ妻ハヤク死シ一女アレドモ盲目ソレモ死セリ名跡ヲ手代ニユヅリテ僧ニモナラズ世間ヲ自由ニクラシ・・・・・名ヲ西鶴ト改メ・・・・・」
 とある。ここから大坂町人の子という通説であるが西鶴着衣の紋が武田一族を現す「細輪に花菱」であることから元武家であると推定されている。


誓願寺 上本町四丁目

 元禄6年(1693)8月10日西鶴は錫屋町の西鶴庵で52歳の生涯を終え誓願寺に葬られた。
   辞世吟
   浮世の月見過しにけり末二年
 は西鶴のもはや何の悔いもない清澄な感慨を表しているといわれる。
西鶴が没した翌年弟子の北条団水が2代目西鶴を名乗り西鶴十三回忌が執り行われた。
 その後明治20年代に幸田露伴がはじめての稿料で無縁墓となっていた西鶴の墓に詣で稿料で台石を寄進し墓を供養した。墓の正面には「仙晧西鶴」左側には「元禄六癸酉年8月10日」左側には「下山鶴平、北条団水」と刻まれている。
 その後昭和8年に上方郷土研究会の手により現代の誓願寺墓地の中央奥に移されたと記録されている。
 毎年9月に西鶴忌が行われている。
西鶴墓碑

誓願寺には武田麟太朗文学碑、江戸時代には多くの在阪の町衆の資金で、学問所として高度な教育を実施した懐徳堂の一族の墓もあり大阪の歴史のいったんを知ることができます。
なお懐徳堂は明治に入り廃止されたがその後復活し現代は大阪大学が書籍等を継承している。
都市の繁栄と文化と密接な関係がある。官僚制度や都市の名称や組織を変更すれば都市が繁栄したことは人類の歴史では存在しない。文学も美術もそして音楽も育つ町でなければ繁栄しないこしはここ大阪が証明している。

       山門を入ったところに建てられている武田麟太郎の文学碑。

彼の作品『井原西鶴』の一節が刻まれている。
小説『井原西鶴』は1937年(昭和12年)の作品で、病気の娘を見捨てて遊行する西鶴に、同じ大阪生まれの自分自身を重ねたところにできた作品で、本人はこれを私小説と呼んでいる。



酷暑が続く今夏は、体調も崩し涼しい部屋でやむなく過ごしているのですが、資料を整理していますと、日本文学に大きな影響を与えた西鶴の原稿があり訂正して掲載しました。
西鶴の作品はすべて読んではいないのですが17世紀の作品とは言えあまりにも軽すぎる現代の作品より人間を深く見つめた作品であることをより知らされています。





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