大和時代の古代道路のひとつで、奈良盆地の東南にある三輪山のふもとから東北部の春日山のふもとまで、盆地の東縁、春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に通ずる古道。山の辺の道とも表記され、歴史上の記録では日本最古の道として知られる。その全長は約35km、幅は2m足らずの小道です。
現在は静かな自然の残るちとなっていますが山田の道、磐余の道、初瀬街道などの主要な街道が集まりかっては大和の繁栄していていた場所を教えてくれます。
沿道には石上神宮、大神神社、長岳寺、崇神天皇陵、景行天皇陵、金谷石仏などがあり、重要な幹線道路であった面影がいまなお残っています。
数十年前に訪れ昨日久しぶりに今回は近鉄櫻井駅から纏向古墳まで山辺の道を散策しました。桜の開花も二部咲き程度した、
まず訪れたのは三輪山近くにあった海石榴市(つばいち)で、日本最古の市が立ったところです。
海石榴市(つばいち)
初瀬川のほとりの金屋付近から大和川を経由し河内港航行し上町台地の北端で淀川と合流し瀬戸内海への船が航行されていた。
掲示には
七世紀代、この周辺は「海石榴市(つばいち)」と呼ばれ、大規模な「市」があったといわれています。ここでは山辺の道をはじめとするいくつかの古道が交わり、大和川水運の港もありました。そのため、様々な物産が集まり、物々交換が盛んに行われていたようです。また、多くの老若男女で賑わい、「歌垣(うたがき)」などの行事が催されました。
このように交易の中心であった「海石榴市(つばいち)」は、都「藤原京」の玄関でもありました。遣隋使として有名な小野妹子が、隋の使者裴世清と下客十二人を伴って帰国したとき、朝廷では、この地で錺馬(かざりうま)七五疋(ひき)を仕立て盛大に迎えたそうです。古代の「海石榴市(つばいち)」は隋や唐の文化の花開く、国際色豊かなまちだったのです。平安時代になると、「海石榴市(つばいち)」は「伊勢詣で」「長谷寺詣で」の宿場町として有名になります。例えば、紫式部が著した『源氏物語』の玉葛の巻で登場します。その他にも清少納言、藤原道綱の母などの多くの文人が訪れたそうです。
と説明されています。現在は静かな自然の残るちとなっていますが山田の道、磐余の道、初瀬街道などの主要な街道が集まりかっては大和の繁栄していていた場所を教えてくれます。
金屋の石仏
重要文化財に指定されコンクリートづくりの祠に保存されていますが、格子越しに拝観できます。石仏として高さ2.1メートル、幅83.5センチメートル、厚さ21センチメートルの2枚の岩に浮き彫りされた像は、右が釈迦如来、左が弥勒如来とされています。鎌倉時代の作といわれるが、天平末期という説もあります。格子戸の間から見ても穏やかな優しい像が伺えます。なぜこの穏やかな優しい仏像が破壊しなければならなかったのだろうか。
大神神社近くの平等寺にあったが、政府の廃仏毀釈で寺と一緒に破壊されるところを村人が保存し守り続けた。と記録されています。
山の辺の道
平等寺
平等寺
境内の桜も開花が始まった状況でした。訪れるのが早かったようですが、のんびり自然豊かな道を散策できました。
大神神社 拝殿
三輪山そのものを神体としており、本殿をもたず、江戸時代に造営された拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。
三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた三輪山を望拝して行われている。
三輪神社に参拝するのは三度目ですが近代に建造された神社と異なり日本人として生まれた意識の荘厳な雰囲気が感じられます。
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