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5月, 2010の投稿を表示しています

富田砕花旧居

1934(昭和9(年谷崎潤一郎が松子夫人と神戸からこの家に移り、1936(昭和11)年までここで「現代語訳源氏物語」、「猫と正造と二人のをんな」等を執筆した住居です。 詩人富田砕花は昭和13年この家に居住し、1945(昭和20)年8月の空襲で塀と一部の建物を蔵書、研究書類等は焼失し戦前の面影は展示室のみとなっていますが、1984(昭和59)年93歳で亡くなるまでこの家に住みその翌年残された研究資料等が芦屋市に寄贈されました。 資料、旧居は1987(昭和62)年から一般公開されています。現在の開館日は日曜日と水曜日となっています。 富田砕花は、岩手県盛岡市生まれ。新詩社に所属し1912(大正元)年歌集「悲しき愛」を発表しました。ホイットマン訳詩集「草の葉」カーペンターの「民主主義のほうへ」詩集「地の子」を創作し大正詩壇に大きな足跡を残しました。 戦後は兵庫県内をくまなく旅し「歌風土記兵庫県」、長編詩「兵庫讃歌」などがあります。 芦屋市は、「富田砕花賞」を設け詩人の意思を継承しています。 富田砕花旧居全景 富田 砕花旧居入り口 富田砕花歌碑 歌土記酒蔵にて 「しんとろりこはくのいろの滴りの澄めば澄むもの音のかそけく 砕花」 と刻まれています。 富田砕花展示室 原稿、画像そして遺品等が展示されています。この離れの部屋が第二次世界大戦の空襲で焼け残った建物ものです。 山と旅が好きな詩人で登山家との交流もあり山の歌も画像も多く残されています。 展示室の原稿・資料等が展示され詩人の歴史を遺品で展示されています NIKON D3 AF-S NIKKOR 24-70mm 1:2.8 GED RAW ISO400

嵐電風景

撮りためていた嵐電画像です。道路と併用されている区間をも撮影したいと思い計画しています。のんびり走っているようですが結構便利な電車です。 御室駅と御室桜 鳴滝駅 龍安寺駅 帷子の辻駅 帷子の辻駅 有栖川駅 NIKON D3000 NIKKOR DXAF-S 18-55 1:3.5〜5.6GV CANIN IXY DIGITAL510IS

広沢池夕景

広沢の池畔の料亭で会食の際、その合間に黄砂で濁っていたが愛宕山や偏照寺山を背景に夕景を撮影し会話と食事を楽しみ、その後京都駅では京都タワーを手持ちでISO1600で撮影しました。夜景も意外と絵になるようでデジタルの特性を生かし機会を見つけて撮影したいと思っています。 NIKON D3000 NIKKOR DXAF-S 18-55 1:3.5〜5.6GV

加悦SL広場 まだまだ

明治時代の鉄道として2号機関車と客車が保存されこのSL広場では乗車体験が可能です。詳しいことは不明ですが120系機関車は平坦地では最高客車7.8両牽引して運転されていたとのことです。 機関車運転室内部 バルブやレバーで鉄製の構造物で構成されています 2軸車で側面全体にステップが設置されています。乗降の都度車掌が鍵をかけたとのことです 赤い帯の3等車 木製客室内部  客車への乗り降りはこのように座席ごとに区分されたドアから乗り降りしていました。座席は畳敷きとなっています。一区分10名で40名の定員では相当狭く大阪・神戸や新橋・横浜など短い区間では我慢できるたのでしょう。 CANON IXY DIGITAL510IS

マンボウ

「マンボウ」という言葉は谷崎潤一郎の細雪の中で道案内の際使われていますが語源ははっきりしていません。坑道のことをかって「間歩」ということからなまってマンボウになったという説もあります。京阪神間に多く平野部の築堤を走る鉄道線路の下に多く見られ現在も残っています。目的は橋りょうでは水路跡とされています。明治にはいり鉄道建設の際外来語の言葉が日本語に表現しやすいように言い換えられたという説が有力です。 琵琶湖疎水の南禅寺の水路ではねじりネジリマンポとも云われています。 語源について調べて見たいものです。 甲子園口駅・西宮間の庄川洪渠 身体をかがめて一人歩くのがやっとですれ違いは不可能です。ここでは煉瓦壁は残っています。 甲子園口駅・西宮間の庄川洪渠。ここは一番狭く譲り合いつつ歩行せざるを得ない低さです。 甲子園口駅・西宮間の庄川洪渠。線路建設でコンクリートとなっています。道路面からはるかに低く水路跡だと言うことが理解していただけると思います 西宮・さくら夙川駅間 細雪に登場する平松橋梁 国道2号線寄り入り口 西宮・さくら夙川駅間 平松橋梁  煉瓦壁ははほとんど塗装され見えません。そして落書きがあちこちに見られます。単車も自転車も降りて通行する人は少なくマナーを守る人は少ないようです さくら夙川・芦屋間 東皿池橋梁 原形はネジレマンボウですが塗装され構造は全く確認できません。立って歩けないにもかかわらずここでも自転車通行は絶えない所です。 ここも道路面よりはるかに低い暗きょが通路となっています。 マンボウは西宮市にのみ残り貴重な存在ですが事故等も発生しているようで掲示等が多々あります。

加悦SL広場 まだ

103号機関車 この機関車も丁寧に保守されています  キハ1018気動車 国鉄が開発した一般型ディーゼル車で国鉄ではキハ17系とされた。1956(昭和31)年帝国車両株式会社製造 キハ083 木造客車オハ62130を1955(昭和30)国鉄盛岡工場で鋼製化改造。1962(昭和37)に気動車に改造した気動車 ラッセル車キ100形式 山陰線で活躍した雪掻車 1938(昭和13)年鉄道省土崎工場 車掌車ヨ2000形式 はじめての鋼製車掌車 汽車製造株式1937(昭和12)年製造 現代では見られなくなった車両が展示されていることは貴重な施設であり遠隔地でそれほど多くの人は訪れることはないようですが天橋立観光の際には訪れて頂きたいものです。 NIKON D3 AF-S NIKKOR 24-70mm 1:2.8 GED RAW ISO400

加悦SL広場 続々

キハ101 加悦鉄道10周年を記念した珍しい半鋼製片ボギー車 1936(昭和11)年日本車両製造 戦後の小型ディーゼル機関車KD-4 1956(昭和31)年製造 動態化保存 4号機関車とSL広場風景 TMC100と大江山鉱石採掘場跡 キハ101とSL広場風景 SL広場 道の駅歩道橋より撮影 加悦鉄道鉱山駅跡 日照時間のきわめて少ない5月に短い時間でしたが晴天での撮影が実現して訪れた甲斐があったとシャッターを押し続けました。 NIKON D3 AF-S NIKKOR 24-70mm 1:2.8 GED RAW ISO400 CANON IXY DIGITAL 510IS

加悦SL広場 続

ハ21 1893(明治26)年 逓信省鉄道局新橋工場製造。車体部分は1935(昭和10)年新製。 DB201 1953(昭和28)年株式会社森製作所製造。森ブタの愛称で親しまれた。 DC351 1963(昭和31)年日立製作所製造 蒸気機関車廃止後の工場即専用として運用 キハユニ51 1936(昭和11)年 日本車両株式会社製造 芸備鉄道(昭和12年国鉄買収)発注40900形キハユニ18 ローカル線専用デッキ付き車両  ハ10 1926(大正15)年 大阪梅鉢鉄工所製造 二重屋根を持つボギー台車で客室は2等、3等に別れていたが、加悦鉄道では仕切りを取り外し運用。1995(平成6)年復元工事 TMC100 1961(昭和36)年ラッセル併用多目的車両 訪れた日は閉館間近で急いで撮影しましたが、鉄道情緒豊かな広場であることを実感しました。機会を見つけてこの地を再訪したいものだと思っています。 NIKON D3 AF-S NIKKOR 24-70mm 1:2.8 GED RAW ISO400

加悦SL広場

大江山連山を望む丹後加悦谷の地に、1925(大正15)年から1985(昭和60)年まで村人たちを乗せて走る小さな木造の駅のある鉄道がありました。その役割を終えて廃線となった後も1873(明治6)に製造された蒸気機関車やマッチ箱といわれた明治時代の客車が27両も保存されています。 復元された駅舎には鉄道機器が展示されて鉱山駅後の広場を散策すれば明治・大正・昭和の汽笛が聞こえて来るようでどこか懐かしく思われるます。 旧加悦鉄道2号機関車は、1873(明治6)年イギリスで製造され大阪・神戸間の工事および開業後の旅客列車用として活躍した機関車 2005年(平成17)年に重要文化財に指定 2号機関車と1893(明治26)年新橋工場製造ハ4995客車 103号機関車。1913(昭和2)年製造 HKPORRERCO(米国) 長門鉄道を経て1947(昭和22)年 1964(昭和39)年まで東洋レーヨン滋賀工場で使用。宝塚ファミリーランドを経て2003(平成15)年加悦SL広場へ寄贈 機関車1261号  1923(昭和12)年日本車両製造。1943(昭和18)年国鉄より譲渡され1967(昭和32)年まで稼働 機関車4号 1943(昭和9)年河東鉄道より譲渡 1967(昭和32)年まで稼働。1923(昭和12)年川崎造船所製造   NIKON D3 AF-S NIKKOR 24-70mm 1:2.8 GED RAW ISO400