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12月, 2007の投稿を表示しています

動輪

ブログを開始し1年が経過したましたが、天候等に恵まれずまた大きな病気の静養につとめていためキレのよい画像がアップできなかったのが残念です。 この動輪が活躍した未来に夢がもてる時のように来年は動きたいものです。

W124C

阪神大震災の翌年にドイツシュツッツガルトの、「ジンデルフィンゲン工場」からやって来た車でクラシックカーとなりつつあります。が満足しています。 この車は長距離ドライブでも何故か疲れが少ない。それは居住性の素晴らしさからだろうと思います。さらには走る、加速そして曲がる停ることはどの車にも備わっていることてはありますがたしかに差があることは乗る人でのみ理解できるものがありまか。人に優しさと信頼性をもたらせ無駄のない機械の美しさが在ります。 130数年前まで駕籠で運ばれていた国と3000年まえから馬車で走っていた国の知恵の差は歴然と教えられる車両の歴史が秘められているからでしょう。

駅の砂時計

「偽」がわが物が顔に賑わいました今年もあと僅かとなりました。

トロッコ列車19世紀館

トロッコ列車の乗場にあるミュジアムです。管内には蒸気機関車が展示されています。

三角点

北摂の山、大峰山(552.3m)の3等三角点です。展望のない山ですが人気のある山です。桜と紅葉の楽しめる阪神間の秘境のような山です

坂道のある街

初冬の雨の降る街です。 Hgashiyama-cho Ashiya

神戸港震災メモリアルパーク

もうすぐ震災13年目となります。いまなお更地として残る場所も多く、また復旧工事も行われています。 傷ついたのは有形物ではなく、人の心ではないでしょうか。 いくら言葉でつくろっても、飾っても崩れた岸壁を見ているとそう考えさせられます。

変貌する梅田

2011年前後にはこの風景は相当変わることでしょう。

宇治川先陣の碑

平家物語で名高い治承、寿永の乱の一つである宇治川の争いの故事にちなむ佐々木高綱と梶原景季の先陣争いの碑です。 宇治川は、古代より北陸と大和、なにわの物流ルートの役割を果たした交通の要衝でした。

鳥居

錦市場風景です。今年は訪れることができないようです。

甲山88箇所石仏巡礼第62番

宝寿寺 愛媛県西条市小松町の62番札所です。 聖武天皇の勅願により、天平年間(729~748)に、伊予一国一の宮の御法楽所として建立され金光明最勝王経を納め、金剛宝寺と号とされていました。 中山川の下流域にあったために、度々河川の氾濫に遭い、破損と再建を繰り返し、天養年間(1144~1145)に再建され、天養山に山号を改めらけれました。 弘法大師が四国霊場開創の時、この寺に留錫し、聖武天皇の后である光明皇后にかたどり、十一面観音を刻み本尊として安置され寺号を宝寿寺に改められたといわれています。

石祠

芦屋市内に現存する最古の金石文です。永正十七(年)大弁才□□等と刻まれています。 1520年頃の鷹尾山に山城が築かれた戦国時代のことです。 日吉神社の創建は不詳ですが、古来山王権現社と称せられ、近江国坂本の日吉大社の大山昨大神(おおやまくいのおおみこと)を祭神とされていました。 弁天島に永正十七年の在銘ある石祠があり、旧津知村の古い社ですが明治六年八月に村社格とし現在に至っています。また厳島神社の石塔もあります。 その後の、明治政府により社会に密着してきた堂社を政策により統合し破棄した社も多々あり古い創建であることを知るのみです。 Tsuji-cho Ashiya

甲山88箇所石仏巡礼第63番

吉祥寺 愛媛県西条市63番札所 毘沙門天を本尊として祀っているのは四国八十八ヶ所中ではここだけで、門柱には「四国唯一毘沙門天鎮座」と書かれている。本尊の毘沙聞天は「米持ち大権現」と呼ばれ、農家からの信仰も厚い。大師が開基した頃の寺は、今よりも南の坂元山にあり、寺領も広大で、二十一坊を有するなど寺は隆盛だった。 だが、天正13年(1585)に豊臣秀吉による四国攻めの兵火により焼失し再建されました。

坂道

初冬の坂の多い町の散策の際の画像です。 Asahigaoka Ashiya

刻印石

芦屋市立病院の駐車場に保存されています。 この病院も日本の医療行政の拙さからどこの病院とも同じように赤字経営で診療科目も限定されています。 いつになれば改められるのでしょうか。 Asahigaoka-cho Ashiya

甲山88箇所石仏巡礼第 61番

甲山山麓の石仏が建てられ多くの方が四季を問わず散策されています。 この石仏は、栴檀山 ・香園寺です。 弘法大師が当地で難産の婦人を助けたことから「安産・子育て・身代わり・女人成仏」の四誓願と祈祷の秘法を寺に残し、第六十一番目の霊場とされています。また境内にある赤ん坊を抱いた大師像は、本尊の大日如来よりも厚い信仰を集めています。

甲山88箇所石仏巡礼第60番

甲山八十八箇所60番の石仏は石鎚山横峰寺の本尊の大日如来です。 横峰寺は西日本最高峰・石鎚山(1982m)中腹にある霊場で、西日本最高峰・石鎚山(1982m)中腹にある霊場で、開祖は修験僧の開祖・役行者小角。 白雉2年(651)、星ガ森(石鎚山遥拝所)で修行中の役行者小角は、石鎚山頂で蔵王権現のお姿を見て、そのままの姿を石楠神化(しゃくなげ)の木に刻んで小堂に安置した。天平年間(729~749)には行基が入山し、大同年間(806~810)には、弘合お地蔵さんも大切にされてい法大師も来錫。42歳の厄除け開運祈願のために石鎚山へ登った。星祭りの修行をしていた大師は、結願の日に役行者と同じく蔵王権現のお姿を見られた。そこで、弘法大師はこの山を霊山と定められ、本尊として大日如来を刻んで安置。第六十番札所に定められたという。 また197mのこの地点は絶景ポイントとして知られています。 背景の建物が神呪寺です。 Kabutoyama-cho Nishinomiya

甲山神呪寺

神功皇后が国家平安守護のために、山に如意宝珠・金甲冑・弓箭・宝剣・衣服等を埋めたと伝られ、このことから甲山と名付けられた」という説が有力ですが、他にも「(山の)形が甲に似ているから」という説もあります。 神呪寺は「かんのうじ」と読みます。 神呪寺境内には石仏巡礼の道があります。これらの石仏は1798年(寛政10年)四国88箇所札所の砂を持ち帰りそれらを神呪寺野南部の境内にまき甲山88箇所が建立されたという。行程は四国遍路の563分の1とされています。 巡礼の道を訪ね石仏をときおりアップしたいと思います。

芦屋の地蔵尊

この町にも数多くの古い地蔵尊が、古き時代の人々の優しい願いが込められて祀られています。 Iwazono-cho Ashiya

日本家屋

木で作られた現在では見られないビルの中に佇む様式の家屋です。 Ohara-cho Ashiya

犬矢来

わが家の近くは車で走るだけでは見つからない風物詩が歩くと出会うことがあります。町家では珍しくない犬矢来と出会いました。 犬矢来とは、家の外壁に置かれるアーチ状の竹や木などでできた垣根の形をしたもので、町家で馬のはねる泥、犬走りと呼ばれる軒下を通る犬や猫の放尿から壁を守るものとされています。 Iwazono-cho Ashiya

煙突のある家

Ymate-cho Ashiya

里山

里山にも秋がようやく訪れています。いつもの景色であってもああ今年もこの季節がと満ち足りた思いにさせられます。 Yamate-cho Ashiya

山ノ手の紅葉

体調を崩しこの季節、遠出ができないためこの町の近くに散歩道にすばらしい紅葉が訪れることを教えられています。 Higashiashiya-cho Ashiya

岩園けやき通

Iwazono-cho Ashiya

農家

瀟洒な家並の中にわずかに残る風情。かってこの地が農村であったことを知らせてくれます。近くにはいまなお水田があります。 Iwazono-cho Ashiya