オニヤンマ 8月 30, 2008 芦屋川沿いの道でユーターンするとき手すりにオニヤンマが休んでいるのを見つけ車を止め携帯のカメラで撮影した。 気温が低いためか動作が緩やかだが、レンズを近づけ撮影時のシャッター音を聞くと驚いて飛び去った。 画像がきれいだ。 続きを読む
地蔵盆風 8月 25, 2008 山手町延命地蔵尊 山芦屋町地蔵尊 西山町延命地蔵尊 小さな芦屋の街ではあるが地蔵盆があちこちでお祭りされていることが分かり今後可能な限り画像に納めたいと考えている。 続きを読む
地蔵盆 8月 24, 2008 都市計画による用地整理と高齢化そして小子化により日本古来の行事の維持は困難になってしまった。と街の世話をする人が語っていた。 神戸の住吉に住んでいた頃、子供たちの夏の楽しみであったことを思い出した。もうこの国ではこのような思い出は作れないのであろうか。 夏の終わりの子供たちの楽しみの日本の原風景のそして情緒を育てたお盆だった。 Ohara0cho Ashiya 続きを読む
鉄道橋 8月 23, 2008 東海道本線上淀川橋梁。1901年完成、新快速や特急列車が通過し今なお使用されている。30年近く経過し高速道路や道路橋の劣化、破損が問題となっているが、現代の建築物が100年も使用されるのであろうか。現地を見ないでものを考える官僚の基準では無理だろう。 続きを読む
夕陽の洋館 8月 22, 2008 こり地でも震災後取り壊されることなく近代建築は保存されることは多い。だが保存し後世に伝えるのは行政ではなく個人が伝えている。いまだ国家としての歴史や文化に対する考え方のレベルは低いのだろう。 Yamate-cho Ashiya 続きを読む
生田神社 8月 21, 2008 古きよき時代の神戸に勤務していた時代に結婚式をあげた神社で、懐かしく折りを見て訪れている。 近くにいるといつでもお参りできると思いつつ遠ざかることが多いから。 続きを読む
打出天神社 8月 20, 2008 打出の地は縄文、弥生そして古墳時代から交通の要衝の地で祀られた古い神社ではあるが創建由来は不明だが生土神として祀られたとされている。 平安時代の十一面観音、菅原道真の像が祀られている。が戦災火災等によりかっての面影は失われているが、国道2号線近くであるため参拝者は絶えない。 明治政府の一村一社法制化の公布によりこの地に祀られた由緒ある金刀比羅神社、南宮八幡神社、春日神社、若宮神社が合祀されている。 続きを読む
8月の空 8月 19, 2008 残暑厳しい眺めではあるが、鉄道貨物駅の拠点からどのように変貌するのであろうか。輸送という鉄道の果たした役割と同じようなそれを越える知恵のある街として大きな使命を果たすことができるのだろうか。 続きを読む
悲しみの残像 8月 15, 2008 駅の構内はすつかり変わってしまったが、当時の姿はとどめている。ここで夜を過ごし人生を終えた人が63年前から多数いた。悲しみの場所はその後10数年続いていた。 そしてアニメと映画の舞台として登場した。 事実を忘れさせようと恣意的な言動をとるものが多いのは人としてはかない思いだ。 続きを読む
岩園天神社 8月 12, 2008 Iwazono-cho Ashiya 祭神 菅原道真 秋葉大神 春日大神 創建については、不明であるが、1692年(元禄5年)の寺社改帳では「天神神表1尺6寸御拝有板葺敷地二十間に十五間除地是は前々より鎮座御座候へ共御勧請り年不分明候」とある。 境内には、7世紀後半の古墳石室が残され、役小角像も保存されている。 続きを読む
重ねた63年の夏 8月 06, 2008 正義、自由、真理を援護するためという口実で投獄、殺人そして暴行、破壊を行うことが当然と思われるような世の中が再び来てはならない。 16世紀のフランスの小説ラブレー「パンダグリュエル物語」より 続きを読む
甲山88箇所石仏巡礼第17番 8月 05, 2008 瑠璃山真福院井戸寺 本尊 七仏薬師如来 開基 聖武天皇 徳島県徳島市 天武天皇2年(673年)に、天武天皇の勅願により妙照寺として開基された。広大な寺領で、末寺十二坊を有する大寺であった。 本尊は、薬師仏を中央にして左右に三体の、七体祀られた七仏薬師如来で聖徳太子の作といわれている。弘仁6年(815年)、弘法大師は、自らが御丈八尺余り(約190センチ)の十一面観世音菩薩や、十二神将四天王、脇侍の日光菩薩、月光菩薩を刻んで安置した。 十一面観世音菩薩は榧の木の一本造りで、国宝に指定されている。 続きを読む
朝日ヶ丘遺跡 8月 02, 2008 芦屋市の町並みは日本的でもなく西洋的でもない独自の住宅地として優れわが国では国内の他の町の追随を許さないことで知られれているが、日本各地の乱開発や環境破壊、景観破壊はここにもおよんでいる。 この遺跡は紀元前5000年前後のこの標高50mに位置する朝日ヶ丘遺跡で人々が住んでいた頃、気候は温暖化し海面は3m上昇した。竪穴住居が広場を囲んで集落をつくった。附近は常緑照葉樹と落葉照葉樹の森林地帯が広がり竪穴住居が広場を囲んで集落をつくった。豊富な木材で丸木船がつくられ漁労活動も可能だった。 六甲山麓のこの地は温暖でももあり水も豊富で住みやすい土地であったようだ。 この地の近くから後期旧石器時代の16000前後とされるナイフ型石器も発見されている。 石器時代から人々が住み始めたことになる。 この遺跡は、壺や土器のかけらが1964年(昭和39年)に発見され広場として保存されている。 続きを読む