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最古の古道 山辺の道 玄賓庵 桧原神社

玄賓僧都は、河内の弓削氏の出で、山階寺(興福寺の前身)の僧である。桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ていたが、俗事を嫌った。玄賓庵の草庵は山岳仏教の寺として栄えたが、桓武天皇の病気平癒に功あり、律師に任じられたが、これを辞退して782年に三輪山の松原谷に庵を結んで隠棲した。
その後荒廃し、寛文7年(1667)に比久宴光が再興した。明治の神仏分離で現在地に移されたという歴史を持っています。
草堂には、奇跡的に残された木造の玄賓僧都像や不動明王座像が安置してある。不動明王座像は重要文化財の指定を受けています。







桧原神社は、大神神社から山辺の道を歩き続けると万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にあります。
大和国が一望できる絶好の場所に位置し、眼下に箸墓の森が見え、二上山の姿も美しい。 かってこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた由緒ある場所として知られています。
檜原神社には本殿はなく、拝殿もありません。ただ大神神社では見えなかった三輪特有の「三輪鳥居」とその奥に神籬(ひもろぎ。神霊が降臨する時の臨時の宿り場所。小さめの樹木や岩石)があります。
この神社に今回で三度目ですが荘厳な雰囲気があり格調の高い神社です。





桜の大神神社を期待し訪れたのですがちらほらと咲いている程度でした。三日ほど早かっのでしようか。桧原神社から卑弥呼の墓だとされる箸墓古墳を見学して散策を終えました。約9.5キロ歩いています。


追記 箸墓古墳
全長272mの前方後円墳。『日本書紀』には、倭迹々日百襲姫命の墓で崇神天皇のころの築造と記されている。
昼は人、夜は神が造ったという言い伝えがある。姫命は崇神天皇の祖父の妹で、三輪山の神、大物主の妻となった人物。夜しか訪れなかった神は、姫命の願いを聞き入れ朝まで泊まったが、その姿は蛇と化していたという。姫命が驚き騒いだために愛想をつかして神が帰ると、後悔した姫命はハシで陰部を突いて自害したと伝えられ、そこから「箸墓」と名付けられた。卑弥呼の墓とする説もある。
 と桜井市の解説がなされているが、日本書紀で読んだ記事を思いだした。
奈良時代に成立した日本最古の歴史書で神代の時代から奈良時代までですが難解な書でもあり日本の古い歴史に学ぶことが多かった。



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