戦後70年を迎えマスメディアで戦災被災の実態が報道されています。70年前のこの時期神戸、芦屋西宮等の阪神間に限らず沖縄をはじめ日本各地で米軍の執拗な空爆により都市爆撃により工場はもとより住宅地も焼け野原となったという歴史的事実があり米軍の空撮映像により確認できます。
また空爆の記録として、夙川の源流となる剱谷という標高580㍍の山があり山麓は大坂城築城石の発掘地として有名な場所でもある。また阪神間や大阪湾眺望が素晴しい。山頂近くの立合峠に565・5㍍の三角点が有り通称ごろごろ岳とも言われ私は何度歩いた。
この近くに昭和10年3月に神戸営林署森林気象観測所が設置され17㍍の望楼が設備され係員が常駐し気象観測と山火事看視が実施されるようになった。観測業務を行った池野良之助氏の記録には、「火垂るの墓」にも登場する記録がある。
昭和20年6月5日阪神大空襲があり「呪われたる五日、午前5時40分、深い眠りは警戒警報の不気味なサイレンで呼び起こされた。・・・・・・神戸上空を見ると、もの凄い黒煙が大空を覆い、空は夕暮れの如き奇観を呈し、まるで夜が段々とせまってくるかと思われるように全く薄暗くなった。まるで往年の日食のようであった。」と記載されています。山頂から炎上する山麓の町々を怒りを持って見た。また自らも観測塔の上空を飛び交う艦載機からの機銃掃射も受けた。不思議なことに苦楽園、お多福山付近にも焼夷弾が落下し突き刺さると発火したが山火事にはならなかった。とも記されている。
この戦争被害に幼い子供を主人公に「火垂るの墓」という作品が現在は桜の名所として知られる満池谷公園、夙川を背景にした野坂昭如により執筆されています。文学が描いた戦争の悲劇について語った作品として名作として知られる「火垂るの墓」を取り上げてみました。
作品をとおして幼い子供達が戦争という逆況の日々にどのような生きたかを作品の背景を歩き辿ってみました。戦争を知らない知らない子供達も歴史を知ることができる作品だと思った次第です。
2日前にもこの町を通り抜けた。信じられない状況に変わり果てている。この町の満地谷の桜を今年は見に行く予定であったので、車のハンドルを握りながらふと幼い頃の戦時中の記憶が蘇らせ「火垂の墓」をふと思い出した。蛍のように短く儚く生きた兄妹の物語で名詞止めの文体、独特のリズム感で現代の西鶴と評される野坂昭如の代表作で、神戸東灘区で昭和20年に焼け出され福井に移るまで2ヶ月間のこの町での生活が原体験となっているとのことです。
だが震災も3年が過ぎ訪れたこの地は、爛漫の花を咲かせ満地谷にはもはや暗い陰はなかった。
小説の導入は、省線(現JR線)三宮駅構内の浜側の柱にもたれかかったまま、尻をつき、栄養失調から来るひどい下痢が続き、もう<清太には目と鼻の便所へ這いいずる力も、すでになかった。「戦災孤児等保護対策要綱」が決定された翌日の昭和20年9月21日、自分が座ってる時のままの姿でくの字なりに横倒しになり、清太は死んだ。
白い骨は清太の妹、節子、八月二十二日西宮満池谷横穴防空壕の中で死に、死病の名は急性腸炎とされたが、実は四歳にして足腰立たぬまま、眠るようにみまかったので、兄と同じ栄養失調症による衰弱死。清太の遺体を覗き込んだ駅員は彼の死を確認し、腹巻きの中から節子の遺骨の入ったドロップの缶を見つけ出して、もて余したようにふると、カラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がりへほうり投げ、落ちた拍子にそのふたがとれて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた蛍おどろいて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。
という書き出しからはじまる。
画像 上中公園 小説の舞台となった御影の家。阪神大震災でも被害を受け面影はない。
第二次世界対戦末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。
6月5日神戸は3月17日、5月11日に続いて、B29の大編隊の空襲を受けた。中学3年の清太は神戸製鋼所に勤労動員されていたが、その日は節電日で自宅待機中であった。
家の床下に掘った防空壕など信用していなかったから、先に病身の母を町内会のコンクリート製の壕に避難させた。そのあと、清太は裏庭に火鉢を埋め、米卵大豆鰹節バター干しにしんなど貴重な食糧を埋め、のない父の写真を胸に入れ、節子を背負って外に出た。そのとき、すでに焼夷弾の落下凄まじく、清太たちは、かねてから決めていたとおり阪神電車の高架沿いを東に走り、石屋川の堤防へ逃げた。
また空爆の記録として、夙川の源流となる剱谷という標高580㍍の山があり山麓は大坂城築城石の発掘地として有名な場所でもある。また阪神間や大阪湾眺望が素晴しい。山頂近くの立合峠に565・5㍍の三角点が有り通称ごろごろ岳とも言われ私は何度歩いた。
この近くに昭和10年3月に神戸営林署森林気象観測所が設置され17㍍の望楼が設備され係員が常駐し気象観測と山火事看視が実施されるようになった。観測業務を行った池野良之助氏の記録には、「火垂るの墓」にも登場する記録がある。
昭和20年6月5日阪神大空襲があり「呪われたる五日、午前5時40分、深い眠りは警戒警報の不気味なサイレンで呼び起こされた。・・・・・・神戸上空を見ると、もの凄い黒煙が大空を覆い、空は夕暮れの如き奇観を呈し、まるで夜が段々とせまってくるかと思われるように全く薄暗くなった。まるで往年の日食のようであった。」と記載されています。山頂から炎上する山麓の町々を怒りを持って見た。また自らも観測塔の上空を飛び交う艦載機からの機銃掃射も受けた。不思議なことに苦楽園、お多福山付近にも焼夷弾が落下し突き刺さると発火したが山火事にはならなかった。とも記されている。
この戦争被害に幼い子供を主人公に「火垂るの墓」という作品が現在は桜の名所として知られる満池谷公園、夙川を背景にした野坂昭如により執筆されています。文学が描いた戦争の悲劇について語った作品として名作として知られる「火垂るの墓」を取り上げてみました。
作品をとおして幼い子供達が戦争という逆況の日々にどのような生きたかを作品の背景を歩き辿ってみました。戦争を知らない知らない子供達も歴史を知ることができる作品だと思った次第です。
画像 桜の夙川堤防
西宮のこの付近は、地名を一首のうちに三つも読み込み道行的な景観の広がりの中に妻と土地への清純な愛を淡々と表現した「吾が妹子に猪名野を見せつ名次山角の松原いつか示さむ」高市の黒人が万葉集に残した景勝の地でもあった。今は感じの良い住宅地になっています。
画像 ニテコ池と名次神社
戦後五十年を迎えるふしめの年に阪神大震災はこの地をも襲った。私も3日目に食べるものもなくなり避難する。国道2号線は、道路陥没そして渋滞等でほとんど走行不能とのことで、芦屋から苦楽園口へと出て、夙川沿いの道を西宮北口を経由し5時間近くを要して妻の実家へたどりついた。倒壊した家屋の側を2階建ての2階部分がかろうじて電線で支えられ道路上に覆い被さっている、巨大な石垣が崩壊寸前の側の道路を余震がと怯え、道路際の電柱も傾き、倒壊した家屋が家財道具も布団も露出し壁土の匂いが漂う道路を車を走らせたのだった。2日前にもこの町を通り抜けた。信じられない状況に変わり果てている。この町の満地谷の桜を今年は見に行く予定であったので、車のハンドルを握りながらふと幼い頃の戦時中の記憶が蘇らせ「火垂の墓」をふと思い出した。蛍のように短く儚く生きた兄妹の物語で名詞止めの文体、独特のリズム感で現代の西鶴と評される野坂昭如の代表作で、神戸東灘区で昭和20年に焼け出され福井に移るまで2ヶ月間のこの町での生活が原体験となっているとのことです。
作品の舞台は、満地谷を中心に現在は阪神間でもおしゃれな町夙川、香炉園と瀟洒であるが当時の面影は陰ほを潜め作品のテーマとは相いれず哀しみに満ちている舞台でもある。
水上勉は、直木賞選考の際、「アメリカひじき」と「火垂の墓」を激賞したとある。その後料亭「幡半」(すでになくなり跡地はマンションとなっている。背景の背景のお椀をかぶせたような形の甲山の麓にあった。広大な敷地と格式ある建物と調度品そして料理は素晴らしい料亭でした何度か訪れたのですが・・・・)を訪れて作品の舞台となった満地谷で想いを馳せたという。野坂昭如もその後満地谷を訪れて、清太ほど妹を可愛がってやればと悔やんでいるが、人の世に果敢に挑戦した兄の哀しみが細やかに伝わってくるようでならない。だが震災も3年が過ぎ訪れたこの地は、爛漫の花を咲かせ満地谷にはもはや暗い陰はなかった。
画像 清太が短い生涯を終えた柱。現在も補修され残されている。
小説の導入は、省線(現JR線)三宮駅構内の浜側の柱にもたれかかったまま、尻をつき、栄養失調から来るひどい下痢が続き、もう<清太には目と鼻の便所へ這いいずる力も、すでになかった。「戦災孤児等保護対策要綱」が決定された翌日の昭和20年9月21日、自分が座ってる時のままの姿でくの字なりに横倒しになり、清太は死んだ。
白い骨は清太の妹、節子、八月二十二日西宮満池谷横穴防空壕の中で死に、死病の名は急性腸炎とされたが、実は四歳にして足腰立たぬまま、眠るようにみまかったので、兄と同じ栄養失調症による衰弱死。清太の遺体を覗き込んだ駅員は彼の死を確認し、腹巻きの中から節子の遺骨の入ったドロップの缶を見つけ出して、もて余したようにふると、カラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がりへほうり投げ、落ちた拍子にそのふたがとれて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた蛍おどろいて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。
という書き出しからはじまる。
画像 上中公園 小説の舞台となった御影の家。阪神大震災でも被害を受け面影はない。
第二次世界対戦末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。
画像 阪神故御影駅付近の高架
6月5日神戸は3月17日、5月11日に続いて、B29の大編隊の空襲を受けた。中学3年の清太は神戸製鋼所に勤労動員されていたが、その日は節電日で自宅待機中であった。
家の床下に掘った防空壕など信用していなかったから、先に病身の母を町内会のコンクリート製の壕に避難させた。そのあと、清太は裏庭に火鉢を埋め、米卵大豆鰹節バター干しにしんなど貴重な食糧を埋め、のない父の写真を胸に入れ、節子を背負って外に出た。そのとき、すでに焼夷弾の落下凄まじく、清太たちは、かねてから決めていたとおり阪神電車の高架沿いを東に走り、石屋川の堤防へ逃げた。
画像 御影公会堂
「お母ちゃんどこに行った?」
「きっと石屋川二本松のねきに来てるわ、もうちょっとやすんでからいこ」と母があの焔から逃れたと信じるしかなかった。
夕立が止んで石屋川の土手に上がってみると、御影公会堂が歩いてきたみたいに近くにえ、国道でも3台連結の電車が往生しており、六甲山の麓まで一面の焼け野原だった。
画像石屋川と石屋川駅
画像 石屋川河口 当時の面影は残っていない
続く
コメント