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京都の紅葉 京田辺 酬恩庵一休寺








京田辺の名刹酬恩庵の紅葉です。京都からも遠く観光客も比較的少なく静かに参詣することができます。一休禅師について調べ足跡を同人誌に解体ことがありますが能に茶道にそして漢詩狂雲集は尋常一様でない。詩の型式をとる形で創作されています。つかみきれない人間の生き方が存在していました。
一休さんは、自らを風狂の狂客とし、遊女街などの歓楽街を徘徊したが、人々は常識を超然した姿を一種畏敬の念を持って観ていた。五山のいわゆる官学に対してではなく、庶民や茶人・連歌師たちに大きな影響与えています。
大徳寺が享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興させるという政治力もある僧でした。小説の主人公としては作家は取り上げる人は少なく水上勉以外はありません。方丈には等身大の木像が祭られていますが拝観しても偉大な人だったと思いつつ対面しています。
今年も紅葉の名所でもあり晴天に誘われて撮影にでかけました。見頃てぜもありのんびり境内を散策しレンズをむけました。

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芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

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