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大阪 島之内 住友銅吹き所跡

「住友銅吹所跡」
 長堀通と東横堀川が交わる末吉橋南西の史跡公園に「住友銅吹所跡」の碑がある。東西横堀川と長堀、道頓堀に囲まれた「島之内」の北東角にあたる。
友以が水運と精錬に必要な水の確保が容易なこの一画に着目し、吹所用地として購入した。その後も住友家が二度にわたり敷地を広げて江戸中期には「住友の浜」と呼ばれ、明治までここに本店、居宅を構えた。
史跡公園に銅吹きの小型炉や明治期の洋館風ビリヤード場が残っている。

昭和初期の住友鰻谷邸



銅吹所は原則として大坂にしかなく、そのうちで最大だったのが長堀の住友銅吹所だった。住友銅吹所跡(銅の精練工場)では、平成2年から5年にかけて発掘調査が行われ、銅の精錬や住友家にかかわる遺構や遺物が発掘され大阪歴史博物館に江戸時代の銅精錬の様子を展示されています。ここでは銅吹きの小型炉が一基展示されています。




銅は古来より「あかがね」と呼ばれ、人々の暮らしや文化と深く結びついた金属の一つでした。江戸時代の日本が世界有数の銅生産国であり、大坂に、世界有数の銅精錬工場があったことは、あまり知られていない。

江戸時代の銅精錬事業について住友もグループの資料で調べて見ると 江戸時代、銅はわが国の重要な輸出品であった。銅座(明和31766、設置)の役割は、まず銅山からの荒銅を当所で買上げ、当時大坂で技術を競っていた銅吹仲間に精練させ、それを集荷して海路長崎へ回送するものであった。また銅の密売を防ぐため古銅類買上げの精細な規定がつくられ、銅器の破片に至るまで銅座が管理した。
 寛永13年(1636)に設けられた大坂住友銅吹所は当時日本最大の銅精錬工場(銅吹所)で、住友家の事業所や住宅を含めた面積は約1200坪あった。
 この地は長堀川、東横堀川、西横堀川に囲まれた地であり、水運に恵まれていたことと、銅の精錬には大量の水が必要であったため、ここに銅吹所が設けられたものと推定される。およそ数百人が働いていたという。
 江戸時代、銅は重要な輸出品目であったが、その輸出用の棹銅(銅のインゴット)製作は、大坂銅座の管理下に置かれ、自由取引はできず、大坂でしか行えなかった。
 各地の銅は大坂の銅座に集められたのち精錬され、輸出用の棹銅は長崎へ運ばれ中国、東南アジアへ輸出された。輸出された棹銅は、銅銭や軍事用品、船具などに加工される。国内用の銅(丸銅)は、銅銭や鍋などの日用品に加工された。元禄期、産銅量は世界一となりヨーロッパの銅価格にも影響を与えるほどであったという。
 この影響力に関しては、アダムスミスの「国富論」において書かれている。
 泉屋(住友)の他にも大坂屋、平野屋などの精錬所があったが、その内で最も繁栄し、規模も最大だったのが、住友銅吹所であった。この当時の銅生産量は6,000トンで、住友銅吹所はその三分の一を生産していた。17世紀後半から18世紀前半までは日本は世界最大の銅の生産国であった。
江戸時代の大坂にあった銅吹所(銅の精錬工場)が世界的に見て高度な技術水準にあり、そこで精練された良質の銅が国内のみならず海外へ輸出されていた。
この船場の地はかけがえのない大阪の文化遺産の痕跡です。

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