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京田辺 棚倉孫神社 山城国

一休寺拝観後、この神社のそばを通り過ぎ、秋の収穫期に隔年で開催される「ずいき神輿は」30種類の穀物や野菜、果実で色鮮やかに飾られ神社周辺を練り歩くことでも知られている神社であることを思い出し坂道を上りお参り後に本殿や拝殿の造りに古式豊かな建築であることを感じさせられました。
この地は、大和国にも近く由緒ある寺院や神社が多く始めて訪れ感動させられました。









神社の由緒によると御祭神は、大永6年(1526年)の棚倉孫神社紀によると、推古天皇31年(623年)9月に相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命(たかくらじのみこと)を勧請するとある。
別名を天香古山命(あめのかごやまのみこと)、また手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)とも申しあげ、天照大御神の曾孫(ひこ)で、天神(あまつかみ)の直系である。
『古事記』や『日本書紀』によると天孫降臨に父命(饒速日命)と共に降り紀州熊野に住み、神武天皇の東征の時、布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉り大功をたてられたとある。
『日本三代実録』の清和天皇、貞観元年(859年)正月27日に畿内七道諸神進階及び新叙があり、267社の中に「棚倉孫神」が従五位下から従五位上の神位を賜った。
延喜5年(905年)に着手し、延長5年(927年)に完成の『延喜式神名帳』に掲載されている神社であり、創建が延喜以前であることがわかる。



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