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6月, 2015の投稿を表示しています

東海道本線 さくら夙川・芦屋間 

月曜日のため空車が多かったのですが晴天に恵まれさくら夙川で久しぶりに撮影を楽しみました。金網越しですので脚立の使用が望ましいですね。    智頭急行 HOT7000系   1062レ EF210-130   2062レ EF210-136   かたほこ橋から守具川橋梁 かたほこ橋から守具川橋梁 今回初めて夙川の上流方かたほこ橋から撮影しました。シャッターチャンスが難しいですが再度撮影したい場所です。 NIKON   D600  AF-S VRZoom-NikkorED24-120- ㎜F3.5-5.6 GIF  

塚本信号場 加島大橋  EF66 EF210

EF210-8 EF210-8 EF66-113 EF66-129 EF66-129 小時間立ち寄り撮影した画像です。体調も悪くもあり大型車の通行で振動も激しく撮影しがたく思いつつ撮影しましたが天候も悪くなり切り上げました。 NIKON   D600  AF-S VRZoom-NikkorED24-120- ㎜F3.5-5.6 GIF  

初夏の花

 タチアオイ  アジサイ サボテン 散策の際のマイクロレンズでの撮影です。花の種類も少なく三脚を使用しなかったためボツ画像が多かったのですが・・・・・今後は丁寧に撮影したいものです。                                   sony   NEX-5  Micro-NikkorAuto 1:3.5  f=55mm

東海道本線 EF65 EF210 EF510 芦屋駅打出村踏切

EF65-2084 75レ EF65-2084 75レ EF210-163 EF510-13 EF510-13 6月6日、特別なトワイライトエキスブレスを撮影後、通過する75列車77列車と列車番号が不明の逆光にかすむEF510形の列車撮影した画像です。 梅雨の晴れ間に晴天に恵まれコントラストの高い画像となりました。 NIKON   D600  AF-S VRZoom-NikkorED24-120- ㎜F3.5-5.6 GIF 

芦屋 八十塚古墳岩ヶ平支群 第14号 岩園天神社

  芦屋の地には古墳時代では、前期段階から翠ヶ丘台地上にいくつかの有力古墳が築造される。前期(4世紀)に築造された古墳としては、現在「阿保(あぼ)親王墓」として宮内庁管理されている阿保親王塚古墳があり、中期には5世紀後半段階の金津山(かなつやま)古墳、5世紀後半~6世紀初頭の打出小槌古墳が造営される。  に入ると、芦屋川右岸に立地し、渡来系氏族との関係が注目される城山・三条古墳群や八十塚(やそづか)古墳群など、横穴式石室を基本とする規模の大きい群集墳が次々と築造されるようになりましたが現在は宅地開発のため破壊されごく一部の古墳が残るのみです。 岩ヶ平氏支群第14号(円墳15㍍)は、鬱蒼とした木立の中から観察としますと円墳の面影が残っています。 画像 円の行者像 古墳の上部に設置されている。         sony   NEX-5   E16mm   F 2.8

芦屋八十塚古 岩ケ平支群第13号 岩園天神社

 旧石器時代や約8000年前の縄文前期の「朝日ケ丘遺跡」と比べれば時代がかなり後になりますが、「朝日ケ丘遺跡」より更に上にある東西500m、南北1キロmの山林、邸宅内に古墳が数十基見つかっています。 かっては調査で100基以上遺っていたといわれていますが、宅地開発で殆ど消滅しています。   「八十塚古墳」の存在は、享保19年(1734)の『摂津誌』や寛政8年(1796)の『摂津名所図会』に「岩ケ平」の 山中に「八十塚」として記載されています。  これらの古墳群は6世紀後半から7世紀中頃の古墳時代後期の群集墳で 芦屋市の朝日ヶ丘町・岩園町・六麓荘町一帯だけでなく、西宮市老松町や苦楽園四番町・五番町・六番町に及んでいます。 この群集墳を「八十塚(やそづか)古墳群」と呼び、古墳群は朝日ヶ丘、岩ヶ平、老松町、苦楽園、 剣谷の5支群に区分されていまが岩ヶ平支群に数が多い。  「岩園天神」の境内にある二つの古墳は、神社の裏にあるものを「八十塚古墳群岩ケ平支群第13号墳」盛り土のない石室のみ残っています  境内の西南すなわち鳥居の前方にある 「役小角(えんのおづぬ)の石碑が建つものを 「八十塚古墳群岩ケ平支群第14号墳」と名称がついています。   八十塚古墳群岩ケ平支群第13号墳」(円墳17㍍) 岩園天神社の創建は不明ですが元禄五年(1692)の寺社改帳に「天神社、表一尺六寸、御拝有、板葺、敷地二十間に十五間、除地。是は前々より鎮座御座候へ 共勧請の年歴不分明候」(芦屋市教育委員会編『芦屋の生活文化史)と記録されています。また元禄9年(1696)奉納の石灯籠があり元禄以前には創建されていたと思われます。当時は、岩ヶ平天神社という名称でした。   sony   NEX-5   E16mm   F 2.8

団臨9040列車 特別なトワイライトエキスプレス  EF65-1135 2015年6月23日 芦屋駅

山陽コースの特別なトワイライトエキスプレス団体列車です。記録のためにと毎週のように撮影していますが撮影する人は結構多く撮影名所には立ち寄らず自宅近くで撮影しています。 今回もやや曇り空ですので24㎜で撮影しています。 NIKON   D600  AF-S VRZoom-NikkorED24-120- ㎜F3.5-5.6 GIF 

チャウシャクシギ  甲子園海浜公園生物保護区

阪神甲子園駅から徒歩15分の場所に位置していますが、かって海水浴場としてよく賑わった所です。現在は海浜公園としても整備され生物保護区でもあります。渡り鳥の飛来地としても知られてはいるのですが最近は干潟も減少し野鳥も少なくなっているとのことです。2.30人が干潟で潮干狩りの人も多くみられ鳥は見ることはなかった。 渡り鳥は春と秋が野鳥が多く見られるのですが、この時期は少ないとのことで2時間近くでかろうじてチャウシャクシギ一羽撮影できたのみでした。   NIKON  D3  AFVR  Zoom NikkorED 80-400mmf4.5-5.6  

文学周遊 戦後70年の記憶 火蛍の墓 野坂昭如 続

画像 御影国民学校  「御影国民学校へ集合して下さい。上西、上中、一里塚の皆さん」清太の住む町名を呼ばれ、母も避難してるかもしれないと行った避難所の御影国民学校で火傷を負った母に巡り会うが、二日後に母は死ぬ。荼毘に付す母の遺体に標識をつけるとき、夥しい蛆がこぼれ落ちた。  一王山下の広場に掘られた直径十メートルぐらいの穴に建物疎開の棟木柱障子襖が積まれ、母の遺体は他の屍体とともに、重油をかけられてまるでもののように焼かれた。節子には母の死は知らせなかった。 画像 満池谷町 西宮のおばさんの家の舞台  母が荼毘に付された夜、かねてから母が着物夜具蚊帳を疎開させてあった、遠縁の西宮の家にたどりついた。  しばらくして、清太は我が家の焼け跡から埋めて置いた食糧を掘り出し、借りた大八車で住吉川、芦屋川、夙川と3つの川を渡って一日がかりで運んだ。遠縁の未亡人は「軍人さんの家族ばっかりぜいたくして」といいつつ、近所にお裾分けをしたりした。中島飛行機に動員されていたが休んでいた女学校四年の娘さんだけは節子を<あやす。未亡人に清太節子は次第に疎まれ、食事も差別された。   満池谷 ニテコ池 つらい生活だったが、一歩外に出ると、夜などすぐそばの貯水池の食用蛙が、ブオンブオンと鳴き、そこから流れ出る豊かな流れの、両側に生い繁る草の、葉末に一つずつ平家蛍が点滅し、手をさしのべればそのまま指の中に光が移り、「ほら、つかまえてみ」節子の掌に与えると、節子は力いっぱいにぎるから、たちまちづぶれて、掌に鼻をさすような生臭いにおいが残る、ぬめるような六月の闇で、西宮とはいっても山の際、空襲はまだ他人ごとのようだった。 画像 清太と節子が海で遊んだ舞台の回生病院の浜辺   また気晴らしと治療に「海行ってみよか」梅雨の晴れ間に、清太はひどい節子の汗もが気になり、たしか海水でふいたら直るはず、節子は子供心にどう納得したのかあまり母を口にしなくなり、もう兄にすがりついて、「うん、うれしいな」去年の夏までは、須磨に部屋を借りて、夏を過ごし、節子を浜に置去りにして、沖に浮かぶ漁師の網の硝子玉まで往復し、浜茶屋といって一軒、甘酒をのます店があって、二人でしょうがのにおいのそれを、フウフウと飲み、かえれば母のつく