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芦屋 八十塚古墳発掘調査 6世紀から7世紀築造 








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この発掘現場は、八十塚古墳群は、大坂城再築の際に石垣用の石材が切り出された「徳川大坂城東六甲採石場」とも重なっており、当時の採石の跡もこの場所でも見つかっています。
この古墳跡からの道路下の住宅地は急斜面を築造して平地としていますがその際に崖下にも切り出した刻印石が多数発見されています。そこから大阪湾へと川の流れを利用して運送しています。
古墳跡には石材を割った跡が残る石や、石のかけらなども確認されています。円墳には大量の石のかけらが投入されており、石材の廃棄場所として利用されたとみられています。
また、古墳の墳丘を避けて丁寧に古墳を破壊せず石を移動させた跡も残されています。
だが1500年の眠りから覚めてもうまもなく永久にこの遺跡は見ることができないと思い撮影しさらに記録したいものです。

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芦屋だんじりの歴史

戦前まで芦屋市内には8基のだんじりがあった。打出(かっては4基)、津知、三条の旧村落に1基、芦屋村の山芦屋、東芦屋 西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋の5集落の5基だった。 これらのうち、三条、津知の両村は近世以前、本庄9ケ村と称して現在の神戸市東灘区区域の村々(森 中野 小路 小路 北畑 田辺 深江青木)とともに保久良神社の氏子として、古くは5月13,14日の祭にだんじりを曳いていた。 打出のだんじりは10月17日に打出天神社の祭に、他の5基は10月15,16日の芦屋神社の祭に巡行が行われた。 このうち山芦屋、打出の2基は現存する。津知、西芦屋 茶屋芦屋 浜芦屋のだんじりは戦災で焼失し、東芦屋は解体、三条は売却された。 打出のだんじりは、近年まで天神社の祭日に境内南方のだんじり倉から出されて飾りつけられていたが、ここ数年は巡行が有志の手で復活された。  打出地車 翠ケ丘町 打出地車 親王塚町 一方山芦屋では、交通事情や曳き手不足で昭和36年から48年には地車曳きは断続的になった。しかし昭和48年山之町地車愛好会が結成され、今日では10月15,16日にもっとも近い土曜、日曜日に市内巡行が続けられている。山之町のだんじりは、明治9年製で明治40年頃兵庫区から購入されたもので、正面には素戔嗚尊ま大蛇退治、泥幕には義経の八艘跳や近江八景 脇障子には源平の敦盛と熊谷などの彫刻を持っている。また後方の小屋根の下には、賎ケ岳の戦いや加藤清正の虎退治が彫られている。だんじりは、昭和53年に大修理が行われた。また、装飾幕が2枚あり、古い方には龍や牛若丸、新しいのは南北朝の忠心(楠木正成 新田義貞 児島高徳)の図が描かれている。   山之町地車  阪神芦屋駅前 山之町地車  精道町 だんじり内では、太鼓 2丁鐘 半鐘が入り地曳きに際して、出発、廻る、前進、後退、宮入り 地囃子 の六種だんじり囃子が奏される。 1979年当時は芦屋市のだんじりは2基が現存していた。と30年近くの古い資料ではあるが芦屋の生活文化史(1979)にだんじりの歴史が記録されている。 その後の推移として記録すると 打出地車、打出地車愛好会が運営、神戸型。昭和9年(1934)10月16日、新調入魂式。大工は植山宗一郎。彫師は

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