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1月, 2009の投稿を表示しています

懐かしい風景

大阪谷町で見つけた懐かしい風景。

石臼のある石塀

1857年(安政4年)の芦屋川水車絵図によれば、米7両、油5両の水車が描かれている。芦屋から西は灘目と呼ばれ江戸時代から酒造用の精米、菜種油しばり、素麺造りの水車産業が発達した。1920年頃には精米用として6両があったがその後産業構造の変化、阪神大水害等により消滅した。 その頃の水車臼が石塀として活用され歴史を伝えている。 Yamaashiya-cho Ashiya

芦屋風景

散策の際、ふと見つけたログハウス風の古式豊かな佇まいがうかがえる家。

芦屋十景003

この十景も最近では語られなくなり忘れられているようだ。なくなら間に記録することにした。

里山散策

夜来雪が舞い里山に雪が積もるかと山歩きを楽しんだ。出かける時も雪空であったが、山の上では日陰に雪が残る程度であった。 今年初めての雪であった。山歩きが好きなのかどうしても山手に足が向く。路上風景の撮影に出かけるよりも回数がどうしても多いようだ。

近松門左衛門墓

近松門左衛門の墓所は尼崎市広済寺にもある。この墓所は何度か訪れたことがある。 ここで執筆したともされている。 大阪谷町にある墓所も史跡として指定されているが広済寺の墓石とよく似ている。 銅板製の墓所説明板には 国指定史跡史跡近松門左衛門墓 近松門左衛門は、享保九年(1724)七十二歳で没した。近世で最も著名な劇作家の一人である。近松は竹本義太夫や二代目義太夫のために百作を越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために三十数作の歌舞伎狂言を著している。 『曾根崎心中』『心中天網島』『女殺油地獄』などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は、今日に通ずるところも多く、伝統芸能や演劇・映画などの中で再創造され、沢山の人々に感動を与え続けている。 近松門左衛門墓は、当初近くの妙法寺(現在大東市へ移転)境内にあつたが昭和55年(1980年)財団法人住吉名勝保存会はじめ市民の方々の協力を得て当地に移転し整備が図られた。 平成七年十月二十八日 大阪市教育委員会 と刻まれている。

山と海

久しぶりに神戸市内を展望した。 震災後復旧しているように見えるが大きく変化しどこにでもあるような安っぽい町の姿になっているようだ。港町とよべる風景は見あたらない。

熊野街道お祓い筋

平安時代の熊野詣では京を出発し下鳥羽かに船で淀川を下り渡辺の津、後の八軒家で上陸し熊野九十九王子をたどり紀伊路をおよそ1ヶ月かけて熊野への旅を続けた。とされている。

熊野街道八軒家

このあたり上町台地の先端で縄文時代は生駒山麓まで河内湾と言われた内界で淀川や大和川の堆積で河内平野となり古代の難波堀江と呼ばれる難波津が生まれ中国大陸との交易が盛んとなった。 平安時代渡辺津と呼ばれ京都からの熊野詣での上陸地となり、江戸時代には三十石船の発着場となり八軒家と呼ばれた。 永田昆布店の店頭に石碑が建てられて所在を教えてくれる。

空堀商店街

大阪城南から1,3キロメートル付近の上町台地に通称空堀、正式には南惣構堀を秀吉が構築した。現在の東横堀川から森ノ宮駅付近までの2キロメートルで深さ10メートル、幅20メートルの水わ張らない堀であったとされている。 大坂城城攻めの際家康が外堀を埋めた堀である。 この歴史からの名称をとった商店街は、戦災にも遭わず生活する人の息吹が感じられる町で和やかな空気が漂っているようだった。ただ空堀は南側とされている。 町おこしのため民家再生に取り組む若い人が集うようになった。再訪したいと考えている。

阪神大震災

JRが芦屋駅まで開通し利用者は多くなった。雑煮やぜんざい等が振る舞われていたが口にしたことはなかった。今と思えば頂いておくべきだったかと思う。 古いネガから起こした見た。

阪神淡路大震災慰霊碑

碑文は、一,十七希望の灯り 一九九五年一月一七日午前五時四十六分 阪神淡路大震災震災が奪ったもの、命、仕事、団欒、街並み、思い出・・・たった一秒先が予知出来ない人間の限界・・・。震災が残してくれたもの。やさしさと、思いやり、この灯りは奪われたすべてのいのちと、生き残ったわたしたちの思いを結びつなぐ。 祈りの日として記憶することが大切なことです。

街並みを作り出す現在建築

街並みを作り出している現在建築です。歴史的な建築物とともに大切にしたいものです。

Mozart

神戸東遊園地に、W.A.Mozartを追憶して没後200年を記念し1991年11月2日に建立されたモーツアルト像に気づき撮影した。 何度も訪れているので恐らく失念したのだろう。 ここは神戸ルミナリエの会場でもある。

神戸東部新都心

震災後14年神戸港は次第に港としり活力は無くなっていくようだ。このまだと衰退してしまうのではないか。

芦屋廃寺

奈良時代前期に創建され室町時代に廃寺となった。と推定されているが伽藍等の遺稿は見つかっていない。 Nishiyama-cho Ashiya

芦屋十景002

市域は狭く幅約2キロメートルと9キロメートルの狭いが六甲山頂近くまであり山林が多いが、有史以来の街道沿いのため史跡は多い。

甲山88箇所石仏巡礼第39番

赤亀山寺山院円光寺 本尊 薬師如来 開基 行基 高知県宿毛市 神亀元年(724年)に、聖武天皇の勅願により行基が本坊と十二坊を建立し開基した古刹であり、 御本尊の薬師如来は、行基が一刀三礼をして彫り上げたもの。と伝えられている。

芦屋天神社

80年前、芦屋天神社は国策により芦屋神社に改められその頃の狛犬と瓦です。狛犬は小さいが歴史を刻み風格が感じられる。片隅に保存されていることは貴重な民族資料だ。

芦屋十景001

芦屋川左岸の阪急芦屋川駅付近の遊歩道に芦屋十景の陶板画があり撮影した。画面の水準確保に努めたが限界があるようだ。一時はあちこちで制作されていたようだがその名残であろう。

狛犬

芦屋神社の狛犬で震災で傷ついています。

甲山88箇所石仏巡礼第36番

第36番独鈷山伊舎那院青龍寺 本尊 波切不動明王 開基 弘法大師 高知県土佐市 弘仁年間(810~824)に、弘法大師により開基された。本尊の波切不動明王は、大師人唐の際、暴風雨に遭遇したとき、風波を切り静めようとして大師が梵字象の波切不動尊を刻んだもの。難破しかけた時、不動明王が現れ宝剣で波を切り開いて難を救われたといわれている。 現在も海上の安全、豊漁などに御利益があるという。

ローカル列車

1970年代の画像で別府鉄道線の旅客列車だった。1両の客車を牽引し土山駅から別府港までのんびり走っていた。蒸気機関車も走っていた。 三丁目の夕陽ではないが将来に希望が存在した時期で、その結果がこのような悲惨極まりない社会を迎えるとは想像もしなかった。

初詣り

三が日の終わり落ち着き近くの芦屋神社へ初参りに出かける。人が途絶えたひととき境内は静かだった。いつもなら百メートルの人が列をなしているのだが。 ゆっくりとお参りできた。