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投稿

9月, 2008の投稿を表示しています

鉄道橋梁

134年前の明治7年開通した大阪・神戸間の東海道線の十三川の鉄橋として架橋された橋を十三橋の道路橋として転用されたものとされている産業遺産である。 構桁は、イギリスDarlingtonIron1873年、鉄道局神戸工場製1896年製となっている。

十三大橋

1932年(昭和7年)完成の淀川にかかる176号線ので、形式はカンチレバプレートガーダー,下路ブレーストリブタイドアーチ,プレートガーダーと言われる。 しかし調和されたアーチは美しい。

運動会

多くの子供に備わっている人の痛みが理解できる普通の人間に成長してほしいものだ。と子供たちの動作や話を見て聞いていつまでも同じことを繰り返す社会の仕組みに翻弄されてきて考えてしまう。 携帯画像 Yamate-cho Ashiya

甲山88箇所石仏巡礼第34番

矢穴石の残る岩の前に祀らています石仏です。 本尾山朱雀院種間寺 本尊 薬師如来 高知県吾川郡春野町 種間寺の歴史は古く敏達天皇6年(577年)頃、摂津の四天王寺を建立するために、百済(現在の韓国)から招かれた大勢の仏師や工匠らが、帰国途中に土佐沖で暴風雨に遭って種間寺近くの秋山港に避難した。そこで仏師たちが航海の安全を祈願し薬師如来像を刻み、秋山の本尾山山頂に安置したのが始まりとされる。 その後平安時代の初期に弘法大師が来錫し、百済の仏師が刻んだ薬師如来像を本尊とし、寺を開基したとされている。

ポスト

このポストも数少なくなっているようだ。市内でも少なくなっている。 異常に固執し丸投げし民営化したが、局から支店に名前が変わっただけでこれからますます評価されなかった組織よりもますます不便になるのであろうか。悲しいことだ。

里程標

淀川堤防に残る丹波への旅の道しるべ。幅100メートルの十三川と呼ばれたの古い道標で通過する車からはほとんど無視されるように建てられている。

適翠美術館

山口銀行創立者山口喜郎兵衛邸として1932年建造。 現在は美術館として使用されている。関西モダニズム20選として指定されている重厚で落ち着いた雰囲気のある建物である。 Yamaashiya-cho Ashiya

淀川鉄橋

のどかな風景ではあるがこの鉄橋も淀川鉄橋である。人も貨物列車も時折新型電車も走っている。 もうすぐ複線化され電車が走るが。

居留地碑

振り向く人もなく碑は建っている。この碑は95番の区画跡である。 兵庫の津や湊川の地が神戸の中心地でこの地は生田川が東に流れ松林があるのどかな区域だった。 そのため神戸開港の6ヶ月前から建設され126の区画の建設された。1867年から1899年まで居留地として存在した。

土塀

旧家の土塀に埋め込まれた装飾物たが厄除けに関係するものだろう。立派な装飾だ。 Rokurokuso-cho Ashiya

木漏れ日

台風が通り過ぎ日課の散策の途中に見つけた日差しすぐに曇ってしまった。

貨物列車

知人のお見舞いの帰途淀川鉄橋に立ち寄った。台風接近のためか晴れ時々曇りと少し不安定であったがかろうじて撮影できた。 通称赤川鉄橋と呼ばれ鉄道マニアの名所となっている。大阪外環状線が開通するとこの景色はみられなくなる。

看板

専売から外れて何年になるのだろうか。 Iwazono-cho Ashiya

源平合戦の社

現在は、都心の中に埋まれているが、西国街道が通り深い木々に覆われ清水が湧き出て行き交う旅人の憩いの場であった。神社の境内には一ノ谷の戦いの中生田の森で戦死した河原太郎、次郎兄弟を祀る社がある。

城山

時折運動不足解消のため散策する鷹尾山というより芦屋では城山として親しまれている。わずか260メートルの前山だが独立したピークのように見え多くの人が歩いている。 Yamaahiya-cho Ashiya

石臼

江戸時代か明治にかけて精米や菜種油の水車産業が盛んだった頃の石臼で使用されなくなり石垣等にし活用されている。 Yamaashiya-cho Ashiya

芦屋の洋館

規制緩和、市場原理主義等々投げ捨ての構造改革で後世に残る建築物は存在することは許されないであろう。 かって我が国ではしっかりと人の生活に寄与し最善を尽くすという品格が伝わってくる建物を創造していた。

打出小槌古墳

芦屋打出の海岸近くに阿保親王塚古墳(4世紀前半)、金津山古墳(5世紀後半)、打出小槌古墳(5世紀後半)の変遷がたどられます。大型古墳は前方後円墳から帆立形、方墳へと形が変わり、規模も縮小化しますが、その中にあって、この芦屋の古墳は阪神間でも最大クラスの大きさになっており、古墳時代中期、倭の5王の一人、雄略天皇の頃には、芦屋地方の豪族が阪神間にあって、著しく勢威を強めていたことがわかる。 この古墳は江戸時代には田地となり埋没していたが1999年に住宅開発の土器等が発見され碑が建てられ跡地として記録されることになった。 西国街道沿いには多くの古墳があったことは記録されているが、開発のため保存されることなくほとんどが破壊されている。

みかん

散歩の途中、畑によく手入れされた青いミカンが枝についていた。酸っぱいだろうと思い画像におさめた。 Iwazono-cho Ashiya

芦屋の洋館

この建物は1930年(昭和5年)大阪の独逸銀行を芦屋へ移築し個人の住宅として使用され1952年(昭和27年)芦屋市が買い取り図書館として活用された。現在も芦屋図書館打出分室として利用されている貴重な明治の洋館である。  Uchide-kozughi-cho Ashiya

初秋

久しぶりの晴天に近くを散策した。さわやかな初秋の風は心を和ませてくれる。

石仏巡礼の道

初秋のさわやかな静かな晴天の石仏の道を散策した。心やすまるひとときを過ごすことができた。

初秋

まもなく実りの秋がやってくる。 しかしこの日本の政治が成熟する時代が到達するのだろうか。

路地

戦後から続く不法占拠なのか、鉄道の高架下はどこも同じような風景がみられる。 いつの時代も同じような風景がある。

住宅難

小さな空き地があれば小さな家が大きな崖にへばりつくように乱雑にそして思い思いに建てられている。

出窓

sanjyo-cho Ashiya

寄生

散歩の途中で見つけた松の木、寄らば大樹。なんだか日本の国の政治の現実を見ているようだ。

旧家

板塀の小路を歩けばマンションの建ち並ぶ街路からタイムスリップした思いがする。 Sanjyo-cho Ashiya

甲山88箇所石仏巡礼第32番

八葉山求聞持院禅師峰寺 本尊 十一面観世音菩薩 開基 行基 高知県南国市 神亀年間(724~729)に、聖武天皇の勅願により行基が開基したとされる。 その後、大同2年(807年)に、弘法大師が航海安全を祈願し、十一面観世音菩薩像を刻み本尊とし安置した。

電車

福知山線に乗車し北新地で下車した。最新の電車と無機質な階段の深さが取り入れたかったが無理なようだ。