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6月, 2007の投稿を表示しています

芦屋の洋館

街の散策を楽しむ日々、空のぬけに恵まれることが少ないようです。この日とばかり願っても・・・

富田砕花旧宅

谷崎潤一郎が松子夫人と新婚生活をはじめ、また源氏物語の現代語訳をはじめた「打出の家」としても知られています。その後に詩人富田砕花が譲り受け詩人として活躍した旧宅として知られています。

大阪駅構内

改良工事で配線の変更もされ次第にかっての面影は消えていくでしょう。

栃ノ木峠

武生から余呉を経由して四日市市に至る国道365号線の滋賀県の最北端にある標高537mの峠です。樹齢500年の栃ノ木の巨木があり附近には栃ノ木が群生していることから命名されています。 柴田勝家が改修した北国街道は別名栃ノ木越えとも言われています。冬期には積雪が4mにも達し通行止めとなります。

越水城跡

戦国時代、西国街道の要衝の地であった頃、永正13年(1516年)瓦林正頼という武将が城を構えました。 小清水城、あるいは腰水城ともいわれ南北200m.東西100mの規模で天守閣もあり城下町もありました。 この碑は大社小学校の校内に保存されていますが、城跡は100mほど北であった。とされています。

茶屋

JR芦屋駅、阪神芦屋、阪急芦屋川駅から30分程度で芦屋の街とは異なる雰囲気のある場所に 着きます。休日には多くのハイカーがこの路を歩き山歩きを楽しんでいます。

黄昏

澄みきった日没前の空です。変わり行き姿を消す雲の形に魅かれます。

新緑の小道

梅雨の晴れ間をみつけ低山散策を楽しみました。街を歩くより目にも身体にも優しく楽しいひとときがあります。

ディスプレイ

板取宿

北国街道は、1578年(天正6年)柴田勝家が岐阜・安土へ向かう最短経路として栃ノ木峠の改修を行なって以来 人馬の往来は頻繁となり、近江、越前の交通の関門の地として板取宿を置きました。 現在も昔の面影をとどめた甲造り型や妻入り型の茅葺きの民家が残っています。

地獄谷

5〜8mの滝が連続したこぢんりとした沢で、足場もしっかりして巻道もあり沢歩きが楽しめますが、だが初心者だけでは歩くことは困難なところです。 地獄谷という言われは露岩の多い山であったため度々洪水が発生し阪神大水害のように降雨の際には鉄砲水が流れば地獄のありさまであったことは考えられます。 別の名を鬼谷とも言われています。

ゲートロック

何度か崩壊していますが、地獄谷に入り目の前に聳えています。数多くのクライマーを育てた40mの高さのある由緒のある岩場です。 ロックガーデン中央稜の岩場から全容が望めます。 芦屋ロックガーデンと名づけられていますが、高座谷が芦屋市と神戸市の市境になっています。 Higashinadaku Kobe

ホワイトフェース

ゲートロックの少し上部にあり、この岩場は山の斜面が崩れ露出してできた比較的新しい岩場です。RCCの活動時代にはなかった岩場です。 白く見えることから名づけられ、ホワイトロックとも呼ばれています。中央稜より撮影しています。

安土城趾

当時の琵琶湖はこの山の麓が湖岸でした。現在は干拓され農地が広がっています。安土城趾を歩き栄華の跡は大手道と石垣に残っています。

架道橋

鉄道の構造物は安全を支えるために強固な施設ですが、それがために造形てきにも機能美に魅かれまます

芦屋文化村

1905年(明治38年)阪神電気鉄道により現在の本線が開業、打出駅と芦屋駅が設置されました。その後独自の沿線文化が育ち、阪神間モダニズムと後世になって呼ばれるようになりました。 芦屋(深江)文化村は、鉄道の開通後いち早く別荘地として芦屋川河口の西(神戸市東灘区深江南町)に位置していた。アメリカ人建築家ヴォーリズの弟子であった吉村清太郎が地元の医師から敷地提供をうけてアメリカ流のハウジングプランを練ったもので、大正末期から昭和初頭にかけて建設がはじまりました。 芦屋文化村の特徴は、中央に住民共有のローンヤードをおき、周辺に意匠の異なる洋風住宅を配した点である。建築の依頼主も滞米生活を経験した商社員をはじめ、貿易商、銀行家など、洋風ライフスタイルへの見識とこだわりから文化村を選んだ人々でした。 現在は駐車場やマンションに変わり4棟が阪神大震災にも耐えてここに残っています。

芦屋の洋館

芦屋仏教会館。昭和2年6月に建設されました。 Maeda-cyo Ashiya

旧甲子園ホテル

東の「帝国ホテル」、西の「甲子園ホテル」と称されたライト建築の優美な建物です。淡路瓦や石造りの重厚で優美な建物は現在の建築家には考えおよばない造形美があります。 1930年(昭和5年)の建造です、現在は大学の施設として使用されていますが現状保存されています。見学も可能です。 阪神大震災前の撮影です。

別府鉄道

1921年多木製肥所が別府港から国鉄高砂線野口駅、山陽線土山駅間の2路線7.8kmの鉄道により肥料輸送を行っていましたが、国鉄貨物輸送体系が変わり1984年2月1日廃線となりました。 廃線となる数年前に撮影した画像です。趣のある気動車や機関車が走っていました。 貧しくても心の豊かなゆとりのある時代の面影がここにあります。

麻績の宿

かっては北国西街道の宿場町として善光寺参拝でにぎわっていました。駅名もながく麻績(おみ)駅でしたが聖高原と改称されています。 高速道路も開通しましたがいまはひっそりとした佇まいが残っています。

会下山遺跡

六甲山地の南面の標高160mから200mの山頂に立地する弥生時代の高地性集落です。弥生時代の争乱を背景にして生まれた村です。 住居棟、祭祀場が発掘され鉄鏃等の武器、釣り針、ヤリカンナ等の利器が出土しています。 画像は復元された高床式倉庫があります。 Sanjyo-chyo Ashiya

寝覚の床

20数年前の中央西線の上松附近で撮影した車窓からの画像です。最近、新幹線は別として在来線の鉄道の旅はしていません。片道600kmの行程では車を利用しています。高速道路はどの路線を走っても景観は悪くカメラを取りだすことはありません。 のんびり鉄道の旅を楽しみたいものです。

旧居留地15番館

阪神大震災で倒壊しましたが、多くの人々の努力により復元されました歴史ある建物です。 風格のある建物が取り壊されることなく旧居留地に残り歴史のある町の雰囲気を残しています。